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2006/08/19(土)
大阪市立美術研究所・雑感 69
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お盆で実家の箕面に帰り、墓参りしてきました。私の恩師・行動美術の創立者の一員である小林武夫先生にのお墓にも会ってきましたが、墓の中から「ちもと、お前は、もう、そっくり描くのはやめろ、いくら正確に描いてもみても同じことの繰り返しだ。べつにデフォルメしろとは言わないが、何か少し、情緒や気分を描くように心掛けろ!!」という声が聞こえてきました。合掌 行動美術創 立 昭和20年 8月15日敗戦。同時に一部の旧二科会有志の間に二科会再建の運動が起りはじめたが、吾等9名は戦後の時代に適合し理想に充ちた新団体の結成こそ志すべきであると考え、11月、行動美術協会を創立。之を発表した。当会の名称は柏原覚太郎の発案によるものである。事務所を向井潤吉方に置く。 < 結成の辞 >
戦いは終った。吾々は新しき文化の黎明を迎えようとしている。 戦争中を躬をもって果敢に生きてきた吾々は更にそれに数倍する責任の重大きの自覚に立って、美しき愛情と新鮮な勇気とに結ばれたもの、今ここに行動美術協会を結成して力強く踏み出すこととなった。吾々は解散に到るべくして解散した旧二科会の復活には何等期待するところがない。 吾々は新生日本美術を樹立し世界文化に貢献せんとするの熱意に燃えているものであるが、徒らなる論議よりも先つ行動、逞しく黙々とこの道を邁進せんとするものである。
昭和20年11月5日 < 備 考 >
昭和19年。すでに太平洋戦争は破局化、敗戦必至の情勢であったが、「美術展覧会取扱要綱」の下では到底自由な美術活動は不可能な実状に陥った時点に於て「二科会」全会員一致の合意の下に大正初期より30年の光輝ある歴史を閉じ、解散宣言を行い終止符が打たれた。日本美術史の流れの中で最も暗く、不毛の時代であった。そして翌20年夏、終戦。私たちの新たなる時代の光明を求めての再出発がはじまった。戦後の再建二科は旧二科の名秩のみを踏襲する新団体である。
設立会員 向井 潤吉 小出 卓二 小林武夫 伊谷 賢蔵 古家 新 柏原 覚太郎 田辺 三重松 高井 貞二 榎倉 省吾
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