美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2006/08/31(木) 大阪市立美術研究所・雑感 78
自然との融和  生あるものの 
大いなる自由、 そして全ての
生命への感謝の念を 
画布にのこしてゆきたいと思います。

赤川実由紀・略 歴
1959 大阪に生まれる
大阪成蹊女子短期大学デザイン美術科卒業
グループ展(大阪府立現代美術センター)
大阪市立美術研究所展(大阪市立美術館)
全関西美術展 入選
大阪市立美術研究所 修了
大阪市立美術研究所展(大阪市立美術館)
現代童画会 出品 以後11 年間出品
グループ展(大阪府立現代美術センター)
大阪市立美術研究所展(大阪市立美術館)
大阪市立美術研究所展(大阪市立美術館)
現代童画会 新人賞
手づくりの絵本展 優秀賞
現代童画会 東京都教育委員会賞
手づくりの絵本展 佳作賞
大阪市立美術研究所展(大阪市立美術館)
個展(3 月・12 月 アートホール神戸)
絵本出版(ひょうご芸術文化センター発行)
絵本原画3 人展(アートホール姫路)
現代童画会 会員佳作賞
現代童画会 会員作家賞
個展(アートホール神戸)
バレンタイン愛の美術展 優秀賞
安井賞展 入選
大阪市立美術研究所展 一席
個展(アートホール神戸)
個展(アートホール明石)
安井賞入選作家展(心斎橋フジギャラリー)
大阪市立美術館付設美術研究所開所50 周年記念展

2006/08/30(水) 大阪市立美術研究所・雑感 77
山下裕子
香川県に生まれる
大阪市立美術研究所終了
1987  
関西独立展入選・大阪市立美術館(以後毎回)
女流Ma展・大阪府立現代美術センター
独立展初入選・東京都美術館
1988   ダイヤモンド新人展・ギャラリーダイヤモンド
全関西美術展入選・大阪市立美術館(以後1996年まで毎回)
Bの会展・大阪府立現代美術センター
1989   京展入選・京都市美術館(〜1991)
女流画家協会展初入選・東京都美術館
大阪市制100周年御堂筋ギャラリー 優秀賞
B'展・ギャラリーダイヤモンド
洋画100和歌山大賞展入選
1990   若き具象作家7人展・徳島眉峰ギャラリー
f・f展・大阪府立現代美術センター
Do版画展・平松画廊
1991   関西独立展 新人賞
F-D展・大阪府立現代美術センター
1992   日伯現代美術展入選
上野の森美術館大賞展入選
個展・梅田センタービル
1993   個展・ギャラリーフランソワ
大阪独立美術作家展・大阪府立現代美術センター
1995   大阪独立美術作家展・大阪府立現代美術センター
1997   「現代のエコール・ド・パリ展」
シャルル・ドゴール・エトワール大賞受賞・パリ
大阪独立美術作家展・大阪府立現代美術センター
1999   大阪独立美術作家展・大阪府立現代美術センター
2000   第五届世界学術貢献奨作品金質奨入賞・北京
2001   大阪独立美術作家展・大阪府立現代美術センター
全関西美術展
2002   全関西美術展
2003   堺・ウェリントン美術家交流展
「MARU-BRIDGE」韓・日美術交流展
個展・ギャラリーウォーターリリー
2004   パレスチナのハート・アートプロジェクトの画家たち展
Wellington-sakai ART EXHIBITION
ナウマンゾウの足跡化石デッサン(野尻湖ナウマンゾウ博物館蔵)
壁画[10万年前の上町台地](大阪市立我孫子南中学校ホール)
「水都、永遠に」((財)大阪市都市型産業振興センター「大阪産業創造館」蔵)


[現在」   独立美術協会会友
日本美術家連盟会員
女流画家協会所属
季刊ポテトチップス主宰
PCアート振興会議主宰

ひとあしあるいて

 一つの色を吸い込む

ひとあしあるいて

  また一つの色を吸い込む

やがてたどり着く

   光を吸い込んだ

約束の場所


放出される刻を待つ

 透明な世界

「刻」80×60cm
アクリル 2003年

2006/08/29(火) 大阪市立美術研究所・雑感 76
趣味人の父の影響で画業を志す。大阪・信濃橋研究所に通う。 1947年 京都市立身術
専門学校油絵科入学(現 京都芸大)。 1948年 大阪市立美術館付設美術研究所に入る。
1950年 東京目白に移転。 内田巌、竹谷富士雄(藤田嗣治の唯一の直弟子)に師事する。

下の絵『二人の女』は藤田嗣治の多大の影響を受けていることがわかる。
油彩画 キャンヴァス 15号 2006年制作

クラシックで落ち着いた雰囲気の作品を創作する現代洋画家、服部和三郎画伯をご紹介いたします。藤田嗣治画伯、唯一の直弟子である竹谷富士雄画伯に師事し、服部和三郎画伯の描く作品は、嗣治の血を引くかの如く、乳白色をベースにした柔らかい描写が特長です。本作品も、嗣治、竹谷の画風を引き継ぎつつ、独自の画風を完成させた細かい描写と鮮やかな色彩が非常に綺麗で落ち着いた作品です。2006年発行美術年鑑によると、一般小売(百貨店)価格14.0万円/号にて発表されています。

2006/08/26(土) 大阪市立美術研究所・雑感 75
大阪人の面白さは官など信用せず、庶民たちがどんどん情報を発し、実践していくことである。例えば歯痛の今治水を発明した、丹平翁が丹平ハウスを心斎橋に作り、赤松燐作の「洋画研究所を作らせたり、その横では漫画家の手塚治の親父に写真研究所を開いたりして、そのごった煮が文化に華開いている歴史が多いから驚く。以下の船場ビルから発する情報センターもモンゴルから岩塩を取り寄せ、料理学校開いたり、歴史の講義をしたり、展覧会をしたり、今後の庶民パワーを期待する者である。

舞妓を描いて30年
中島正夫油彩画展
 大阪船場の協同組合大阪舶来マート(理事長 加藤勇夫 大阪市中央区船場中央1丁目2番1 船場センタービル1・2・3号館地下1階)の創立30周年記念事業で開設された大阪舶来マートアートギャラリーで、来年1月7日から18日まで、奈良県河合町の油彩画家中島正夫氏が、「中島正夫油彩画展」を開きます。テーマは舞妓を描いて30年、古都(奈良・京都)の四季を描いた風景画約50点を展覧。入場は無料です。

 1965年に高校を卒業後、大阪市立美術研究所で油絵を学び、奈良や京都の移りゆく季節や行事を描くことで日本の心を表現してきました。特にこだわっているのは京都・祇園界隈の風情で、舞妓さんを描き続けて30年になります。

 開場は午前10時から午後6時。日曜祝日は休館。問い合わせは、大阪舶来マート事務局(06−6271−8680)まで。

中島正夫氏アトリエ 〒636-0055 奈良県北葛城郡河合町 TEL 0745−56−2451

※なお、大阪舶来マートアートギャラリーのオープニングセレモニーを1月6日(月)、12時30分より行います。記念コンサート「筝と尺八の響き」(演奏ぐるーぷハーモニー)の後、「中島正夫油彩画展」の内覧会を行います。
中島正夫プロフィール
1947年 奈良県橿原市に生まれる
1965年 奈良県立畝傍高校卒業 大阪市立美術研究所に学ぶ
1968年 全関西展出品
1984年 渡欧
1985年 第30回 新世紀展初出品  初受賞  以降毎年出品
1988年 第33回 同展受賞
1993年 第38回 会員推挙
1995年 同会退会 フリーになる
1995年〜ふたかみ文化センターにて個展

2006/08/25(金) 大阪市立美術研究所・雑感 74
田中 敦子(たなか あつこ、本名、金山 敦子(かなやま あつこ)夫は画家の金山明。
1932 大阪生まれ
1951 京都市立美術大学退学後、入学前から通っていた大阪市立美術館付設美術研究所に通う
1953 0会に参加
1955 具体へ参加
1965 具体美術協会を退会
1969 奈良県明日香村に移住
国内外で個展・グループ展多数。

京都市立美術大学(現在の京都市立芸術大学)中退。その後、吉原治良に師事し、昭和28年(1953年)から昭和30年(1955年)頃は、布に数字を書き、一旦裁断し再びつないだ作品を作る。主に抽象画を描き、昭和30年(1955年)具体美術協会会員に入会し、同協会の主要メンバーになる。サンケイホールなどで開催された『舞台における具体美術』展で、カラフルな電球と管球が明滅し光の服に見立てた「電気服」を着るパフォーマンスを行った事で知られる。

絵画作品は、「電気服」などのオブジェと同様、色彩豊かな円と曲線が絡み合う前衛的作風で知られ、国際的にも高い評価を得ていた。昭和40年(1965年)具体美術協会を退会する。平成13年(2001年)芦屋市立美術博物館と静岡県立美術館でそれぞれ大規模な個展を開き、絵画とオブジェで独特の精神世界を表現した。この巡回展では国際的な再評価の声も高く、草間弥生、オノヨーコに並ぶ偉才と評された。 奈良県明日香村のアトリエで絵画の制作を続けていたが、
平成17年(2005年)12月3日肺炎のため、奈良市の病院で死去した。73歳。

2006/08/24(木) 大阪市立美術研究所・雑感 73
織 田  繁/ODA Shigeru


1933〜(昭和8〜) 大阪府に生まれる。昭和25年高校在学中から油彩画の制作を始める。昭和26大阪府立高津高等学校を卒業し、その後昭和20年まで大阪市立美術研究所で須田国太郎らに学ぶ。昭和27年関西独立賞を受賞。昭和29年頃から銅版画を始め、昭和34年ライプチヒ国際版画展に出品、ドレスデン美術館に買い上げられる。昭和41年渡仏。パリ国立美術大学銅版画科、アトリエ17などで銅版画の各種技法についてヘイターらに学ぶ。昭和42年帰国。その後各地で個展を開催。昭和56年埼玉県の秩父にアトリエを移す。人間や身近な植物などをモチーフにして「自己の内部の奥深いところから現われてくるものを表現する」ことをテーマに、主にメゾティント技法による銅版画の制作を行っている。

下の絵はヨーロッパのルネッサンス時代の古典絵画に良くでてくる薔薇が気になっていた。或る日その苗が手に入り、庭に植えてみると予想していた以上に蕾も花も素晴らしいものであったのでこの薔薇にふさわしい古典技法の絵画技術で制作しました。<br>
欧州の美術館巡り(1966年〜1967年)をやってみると、キャンバスに描かれた油彩画は100年単位でみると、耐久性が無いということ。歴史的には油彩画の時代よりも数百年も前に、テンペラ・油彩の混合技法で板の上に地塗りをしてから描かれた絵画のほうが保存状態が良く耐久性があると言うことに気が付く。いったんそのことに気が付くとキャンバスに描く気にはなれないのでパリの画材店には幸い、ハードボードを基底材として売っていたのでその頃からハードボードの上に絵をかくようになった。
技術的に試行錯誤の期間があり個展での作品発表は銅版画が多かったが1989年(大阪梅田画廊)2002年(銀座・ヤジマ画廊)2003年(川越市のギャラリー・ユニコン)2004年(竹橋・毎日アートギャラリー)などで銅版画とテンペラ油彩混合技法で描きつづけておられる。

2006/08/23(水) 大阪市立美術研究所・雑感 72
美術研究所の本体、大阪美術館館長を紹介したい。
上野直昭
うえの なおてる
美学・美術史学者。兵庫県生。東大卒。ヨーロッパに留学後、再び渡欧してベルリン大学で日本美術を講義する一方、ひろく東洋美術に理解を深める。学習院・京城帝大教授をへて大阪市立美術館長。戦後、日本学士院会員。東京芸大学長・東京国立博物館長。昭和48年(1973)歿、91才。
 さすが館長ともなればすごい経歴だ。その上、世界美術辞典,全巻を監修しておられるが、本書では収録項目を書道、工芸を含めた建築・庭園・彫刻・絵画等の各分野まで広め、総数130名の専門家が項目ごとに解説しておられるのには驚嘆する。ところが卒業生の祝辞は実にやさしいので、また驚いたね・・・

おめでとう。とても嬉しく思います。
今日は諸君らのために何をしたらいいのか悩みました。晴れの門出には何かが必要であると思いました。そして、今書いたこの文字は「愛」という字です。ただ、一カ所、書き足りないところがあるので、祝辞の最後に書きます。
この「愛」という文字は、人と人が背中を向けた間に「心」という文字が書いてあります。古代中国の青銅器に彫られていた文字です。
お互いに励ましあい、研鑽しあい、そして、今日の日に、互いのことを思いながら慈しみの心を持ち、お互いが心を背にしながらお互いのことを考え離れていく。相手に心を残しながら慈しむ。それが本来の「愛」です。
そして、時代を経て現在の私どもがよく使う「愛」、この意味を含ませていければよいのだと思います。古代の文字が、まさしく今日のような旅立ちの言葉と一致しています。
2年、4年、6年、8年、9年、何年か前に諸君らは、この学舎で学ぶことになりました。辛い思いもあったでしょう。なかなか作品がまとまらない、思いを込めてもそれが表現できない、大きな山がいっぱいあったと思います。しかし、今、諸君らは大きな山を登りきりました。やり終えました。素晴らしいことだと思います。その感動を、そのときめきを、今すごく感じます。こんな素晴らしいことはないと思います。
一つ提案させてください。「誰が好き?」って聞かれたら、「自分です。」と答えて下さい。自分を好きになることによって、好きな自分が素晴らしい作品を作り、そして、現在の自分がいるようになります。
自分を褒めてあげて下さい。だからこそ、他人を好きになることができるのです。そして自分を大事にしてください。比べるものは他の者ではなく、自分です。一昨日の自分、昨日の自分、今日の自分、そして、未来にその自分を託してもらえたらと思います。
「国家の品格」という本を読み、私はとても嬉しかったことを覚えてます。まさしく、東京芸術大学の品格を、音楽学部・美術学部の品格を、そして、諸君ら卒業生の品格を、今日感じます。これから社会へ出て、荒野に旅立つわけですが、どうか品格を忘れずに日々の演奏活動、制作活動に励んでもらいたいと思います。
諸君らは今とてもいい目をしています。諸君ら全員の輝いた目を見たい。そんな気持ちです。
今後、周りからちやほやされることがあると思いますが、感謝の気持ちを忘れないでください。特に今日は大勢の保護者の方々がこられていると聞いています。第6ホールでは立ち見になっているということを聞きました。
ご両親は、褒めてやってください。諸君らは、諸君らを選び、育て、生かした先生方に感謝してください。そして、裏方として支えてくれる事務職員の方々にも感謝を忘れないようにしてください。
どうぞ、勇気を持って荒野に旅立ってください。
愛の字の最後の一本をこれから書きます

2006/08/22(火) 大阪市立美術研究所・雑感 71
坂本正通氏略歴1949  大阪市西成区に生まれる。賀集幼稚園、天下茶屋幼稚園、天下茶屋小学校、天下茶屋中学校卒業。
1964  浪速高校入学。
      美術部に入部。油絵を描き始める。藤井満先生に美術の基礎を学ぶ。
1967  浪速高校卒業。
      近畿大学入学。
      大阪市立美術研究所で石膏デッサンを学ぶ。
1968  近畿大学経営学科中退。
1972  すいどーばた美術学院デザイン工芸科に入学。
      久留景信、宮田亮平先生にデザインの基礎を学ぶ。
      東京日仏学院でフランス語を学ぶ。
1974  武蔵野美術大学入学。
      窯工研究会に入部。生物原論ゼミにて国井喜章先生に影響を受ける。
      保田春彦、若林奮先生に彫刻を学ぶ。
      佐々木達三先生に工業デザインを学ぶ。
1978  武蔵野美術大学造形学部工芸工業デザイン学科卒業(クラフトデザイン専攻)。
      イタリアに渡る。
1979  ペルージャ外国人大学を経て、ブレラ国立美術学院入学。ジャンカルロ・マルケーゼ先生に現代彫刻を学ぶ
      在学中、ヨーロッパ14カ国を歴訪。
1981  ブレラ国立美術学院彫刻科修了。ロンドン、ニューヨークを経由して帰国。
1996  くらふと坂陶(光明窯)設立。

 とにかく氏は窯焼きをするかたわら、全世界を旅をするのが好きな人であるようだ。故に旅の達人を自認し、現役バックパッカー。43ヵ国を旅して旅行ガイドブックに寄稿多数あり。

 昔はよかったとは、旅の話で、ヨーロッパでも一日1000円もあれば暮らせた。もちろん、ホテル・ハイアットに泊まり高級レストランで食事する、そんな旅ではない。ユースホステルや夜行列車に泊まり、スーパでパンとハムを買って公園で食べる。いわゆる安宿に泊まることさえ贅沢に感じられるような旅である。フランスがTGVを走らせ、スペイン、ドイツが高速鉄道を走らせた時から、ヨーロッパの国際鉄道網は分断された。移動時間が短縮され、便利になったけれども、我々のような貧乏旅行者にとっては鉄道を使った勝手気儘な旅は出来なくなった。国が豊かになり生活に余裕が出来ると人は旅に出る。金はあっても旅のノウハウがないから、勢い団体ツアー旅行となる。そして徐々に個人自由旅行に移行していく。日本という国は不思議な国で縄文時代が8000年もの長い間続いたように、未だに団体ツアー旅行を続けている。観光バス・ガイドを先頭に「ロスへ行って来た」、「ニューヨークへ行った」、「パリーへ行った」とよく聞かれるが、「連れて行って貰った」と言うのが正確な表現であろう。確かに,「負んぶに抱っこの旅もよいではないか」と言う人もいるだろう、でも、各人それぞれの旅の興味は違うはずだし、それに、いたずらに旅行代理店や旅行業者をボロ儲けさせるのも考え物だ。
 旅は己自信の発見である。自分で旅を考え、自分の足で街を歩いてこそ、旅ではないだろうか。旅の価値がホテルやレストランのランクで決まるものではない。そろそろ日本人も旅の中身を考え、自分の興味に即した「旅」をすべきだろう・・・・

 それでなくとも本屋には観光案内の本が山済みされ、なにを今さら知ったかぶりのバス・ガイドの案内など聞かねばならないのか不思議な日本人である。

    

2006/08/21(月) 大阪市立美術研究所・雑感 70
大阪美術研究所から多彩人々を輩出している。前に紹介した「人間時計」という漫画で一世を風靡した徳波誠吾もそうであるが、彼は紙芝居画家でもあり、関西での紙芝居王・塩崎源一郎氏にお世話になっている。たまたま故塩崎源一郎翁の名を思わぬところで聞いたので書いておく。信州信濃町、黒姫山の山麓に建つミヒャエル・エンデ記念童話館である。
「ええ、塩崎さんのお名前はここにも聞こえていますよ」
 大阪を遙か離れた雪国で思わず耳にした、若い館員さんの尊敬のこもった言葉遣いに、塩崎翁の偉大さを今更ながら思った。
 塩崎源一郎翁の自宅兼博物館は、大阪西成区の天下茶屋にあった。翁の名は、それに携わる人々やマニアの間で絶大な響きを持っていた。大阪における街頭紙芝居の絵元であり、収集家であり、新作のプロデューサーとして、東京ではすでに博物館の中に入って久しいと言われた街頭紙芝居の灯を、亡くなる直前まで全身を賭してともし続けた人物だからである。
 街頭紙芝居にのめり込む友人に誘われて、生前の翁を幾度か自宅兼博物館に訪ねたことがある。地下鉄四つ橋線「花園町」で降り、長屋の続く小路をしばらくいくと、その長屋の一軒に塩崎翁の自宅があった。しかし、ひとたび扉をくぐるとそこには外観からは想像できない世界が広がっていた。土間、書棚、押入、はては階段にまで、整然と、しかし、ぎっしりと詰め込まれた数万巻はあろうかと思われる紙芝居原画たちが息を潜めていた。私は、まずその量の大きさに圧倒されたが、つぎに、そこに収蔵された紙芝居の画面に踊るヒーロー、悪漢、はたまた妖怪やお化けなどの異形の者たちとの突然の再会に目が眩んだ。タイムマシンに乗って少年のころの自分にふいに遭遇したときの驚きというのはこういうものに違いない。
 しかし、それは私の失礼な思い違いだった。彼らは現役のヒーローであり、悪漢であり、妖怪だったからだ。塩崎翁と彼に師事する人々の手で、街頭紙芝居は今日でも、その逞しい生命を保ち続けているのである。

            ◆

 大阪は、一九八四年まで免許制度が残っていたほど街頭紙芝居が盛んな街であった。そして、今でも多くのファンが存在し、公演を支えている。(塩崎翁の事跡と大阪の街頭紙芝居の現状については、『大阪人』[二〇〇二年九月号・大阪都市協会]が特集を組んでいる。)学校教育の一環として演じられる教育紙芝居と異なり、街頭紙芝居は都市の雑踏空間で演じられる強烈なパフォーマンスである。街頭の騒音と闘って観客=子供たちの視線を力ずくで奪い取る絵の迫力と色彩。元来は動かない絵に生命を吹き込む紙芝居屋の(生活がかかった)職人芸。この街角で演じられる紙芝居屋と観客との丁々発止のやりとりが持続しなければ、街頭紙芝居は、その命の大半を失う。それは、昔も今も変わりない。
 現在、もはや紙芝居を専業とする者はいない。ただ、上演の形態を守りながら、この芸能を継承し発展させようとする大阪人は少なくない。主婦、教員、医療従事者など、職業は千差万別ながら街頭紙芝居の可能性に魅入られた人々が今を支えている。
 しかし、それだけでは不十分だ。彼らにネタの「絵」を提供しつづける塩崎翁のような絵元が存在しなければ、この芸能は存立しないのである。だからこそ、塩崎翁の存在は、大きかった。塩崎翁が亡くなられた今、生涯を連れ添った伴侶のゆうさんが、翁の遺志を受け継いで、八〇歳を超え健康に不安を抱えながらも健気に絵元の役目を続けている。絵元と紙芝居屋。大阪の街は、この車の両輪を奇跡のように転がし続けてきたのである。
 一方、東京の街頭紙芝居は、保存を優先し原画を博物館に収蔵したために、紙芝居屋たちがそれを使って自由に「商売」することができなくなったことによって、その芸能としての生命を失ったと言われる。口さがない大阪人ならこう言うに違いない。ときおり虫干しでもするかのように引っ張り出した紙芝居を、芸術の薫り高い舞台で演じたとしても、それは「似て非なる」レプリカに過ぎないと。
 館員は言う「人情にもろい人でした。夢想家でもありました。原作者や画家をかばって、駄作でもなんとか活かそうとする人でした。でも、アドバイスをするときは、ストーリーができてからでも、ここはこう直した方がいいと的確に指示を出しました。原作の筋を頭に入れて十分に計算をしてから細かに指示を出したりすることもありました。」
 
 こうやって多くの原作者や原画家が塩崎翁に育まれた。その中には、演劇の美術担当や絵本作家、漫画家など他の芸術領域から越境してくる人々も多かった。街頭紙芝居は、時代を共有する多様なメディア芸術の中で生きてきたのである。

 さてさて、友人が好んで使う馴染みの会場は、平野の商店街に隣接したお寺の境内である。演目は、名作の誉れ高い「蝋人形」や「ネンゴネンゴ」などのホラーもの。
 かつて夕暮れの路地裏に自転車に乗っていずこからともなく現れた紙芝居屋のおっさんは、すでに過去のものとなったが、駄菓子に群がり、上演を今か今かと待つ胸の高鳴りは以前のままである。
 ほら拍子木が鳴り始めた。開演である。

   写真は塩崎さちさん。

2006/08/19(土) 大阪市立美術研究所・雑感 69
お盆で実家の箕面に帰り、墓参りしてきました。私の恩師・行動美術の創立者の一員である小林武夫先生にのお墓にも会ってきましたが、墓の中から「ちもと、お前は、もう、そっくり描くのはやめろ、いくら正確に描いてもみても同じことの繰り返しだ。べつにデフォルメしろとは言わないが、何か少し、情緒や気分を描くように心掛けろ!!」という声が聞こえてきました。合掌


行動美術創 立

 昭和20年
8月15日敗戦。同時に一部の旧二科会有志の間に二科会再建の運動が起りはじめたが、吾等9名は戦後の時代に適合し理想に充ちた新団体の結成こそ志すべきであると考え、11月、行動美術協会を創立。之を発表した。当会の名称は柏原覚太郎の発案によるものである。事務所を向井潤吉方に置く。
  
< 結成の辞 >

戦いは終った。吾々は新しき文化の黎明を迎えようとしている。
戦争中を躬をもって果敢に生きてきた吾々は更にそれに数倍する責任の重大きの自覚に立って、美しき愛情と新鮮な勇気とに結ばれたもの、今ここに行動美術協会を結成して力強く踏み出すこととなった。吾々は解散に到るべくして解散した旧二科会の復活には何等期待するところがない。
吾々は新生日本美術を樹立し世界文化に貢献せんとするの熱意に燃えているものであるが、徒らなる論議よりも先つ行動、逞しく黙々とこの道を邁進せんとするものである。

昭和20年11月5日
< 備 考 >

昭和19年。すでに太平洋戦争は破局化、敗戦必至の情勢であったが、「美術展覧会取扱要綱」の下では到底自由な美術活動は不可能な実状に陥った時点に於て「二科会」全会員一致の合意の下に大正初期より30年の光輝ある歴史を閉じ、解散宣言を行い終止符が打たれた。日本美術史の流れの中で最も暗く、不毛の時代であった。そして翌20年夏、終戦。私たちの新たなる時代の光明を求めての再出発がはじまった。戦後の再建二科は旧二科の名秩のみを踏襲する新団体である。

 設立会員 向井 潤吉 小出 卓二 小林武夫 伊谷 賢蔵 古家 新 柏原 覚太郎 田辺 三重松 高井 貞二 榎倉 省吾


2006/08/18(金) 大阪市立美術研究所・雑感 68
小嶋千鶴子 館長インタビュー

一一開館間もない「Paramita Museum」を訪ねて

庭に出てみる。この美術館はケヤキの古木が残る雑木林を買い取って建てられ、200種類の山野草が植えられている。

 またサロンの前のガーデンには山口牧生作「四角い石」がある。山口は京大哲学科卒。夜間高校の教師をしながら大阪市立美術研究所に通い、彫刻を学ぶ。次第に石に心ひかれるようになり、採掘場の片隅にアトリエをもち、石と向き合う日々を過ごす。そして黒御影石にべんがらを施す独自の表現方法を開拓した。「四角い石」もその方法で制作されている。山口はここを訪れ、石の置きかたなど厳密に指示したそうだが、開館を待たずに2001年12月に死去した。林の中には、山口が自分の柩をイメージしたという「石の中」も展示されている。
 また、内田鋼一の壺が並べられた「壺の道」も楽しく、何度も往復した。


小嶋三郎一「黄色のバックのザクロ」


伊藤慶二 ヒロシマシリーズ「証」

〈第6室〉
小嶋三郎一の絵画

 最後の部屋は、館長小嶋さんの夫である画家 小嶋三郎一の作品を展示している。三郎一は1908年、三重県に生まれた。須田国太郎に師事。若いころは抽象画を描いたが、晩年は「目に見えるものは何でも描きます。好きに見てもらえばいいわけです」という言葉通り、身の回りの何気ない果物や花などを描いた。7年前、90歳で他界。

 展示室を見終え、入口に向かう廊下の両側の壁には、伊藤慶二の作品が展示してある。伊藤は建物外壁の「Paramita の壁」の作者だが、1935年生まれ。武蔵野美術大学で油絵を学んだあと、25歳ごろから陶芸デザイナーとしてスタートした。やがて作る側に転向。日根野作三に師事。美濃で黙々と制作を続けている。オブジェから実用的な器まで、さらに白磁、焼締、土物と幅広い表現を展開している。ヒロシマシリーズ「証」は広島平和記念資料館の模型展示を思い出させる。

2006/08/10(木) 大阪市立美術研究所・雑感 67
海を越えて・當摩殷子

 奈良を訪れる外国人観光客は、1992年の32万8千人をピークに減少していましたが、ここ数年は増加傾向にあります。また、アジア諸国出身者を中心に年間300人以上の外国人学生が奈良へ留学してきます。
 一方、奈良から海外へ出ていく場合ですが、奈良県の人口千人あたりの海外渡航者数は162.71人で、東京都・神奈川県・千葉県に次ぐ第4位となっています(1997.1)。
 奈良県は、国内でも数少ない「海に面していない」県ですが、海を越えた往来は確実に盛んになってきているようです。


時を超えて

 奈良県には206件もの国宝があり、これは京都府・東京都に次いで3番目に多い数です(1998.1)。中でも、国宝指定されている文化財のうち、彫刻物の6割、建造物の3割が奈良県にあります。これは、歴史を経た仏像を安置する古い寺や神社などが県内に数多く残っていることを物語っています。
 また1998年末には、大仏で有名な東大寺のほか、興福寺、元興寺、薬師寺、唐招提寺、春日大社、春日山原始林、平城宮跡の8つの資産が「古都奈良の文化財」として世界遺産リストへの登録が決まりました。



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表紙説明:みんどの池のうし蛙(旅立ちの図)(創作版画)
 うし蛙の息子は空行く雲に憧れて旅立ちましたが、途中で倒れてしまいました。ふと気がつくと目の前のお堂に仏様、しばらくお仕えしていました。ある日夢に母が現れ、それまでの親不孝を後悔し、急いでみんどの池へ帰りました。既に母の姿はなく、池にはガマの穂が墓標のように立っていました。うし蛙の泣き声はあたりにボワーンボワーンと響き、今も哀れをさそっています。

作者:當摩殷子(とうまただこ)
 奈良県王寺町在住。1922年生。10代半ばで画家を志し、中之島洋画研究所と大阪市立美術研究所で学ぶ。シルクスクリーン版画から木版画へ。今回の作品は昨夏に創作した21点のうちの1点。日本美術家連盟会員。

 また當摩殷子氏は日本シルクロードの会・会長さんです。以下のホムペより・・・
http://www.pref.nara.jp/silk/kaze/ja/index.html

2006/08/09(水) 大阪市立美術研究所・雑感 66
滔々と流れ落ちる大峰山・七重の滝、静まりかえる冬の妙高、幻想
的な正倉院校倉。国内各地の山岳や花、イタリア、オーストリア、ベ
ルギーなどの風景を場所や時間を問わずスケッチし、水墨画に描いて
きた。画家はいつも、なんでも描かねばならない。
 作例を大きく掲げ、どう描けばいいかを簡略に述べながら、構図に
ついても図示した。上達のポイントとしては次のように主要な要点を
まとめた。
 ◎主題と副題を見つける◎近景、中景、遠景の設定をする◎季節感
と描いた時間の表現◎自然の要素を取り込む◎楽しく描くこと。
 水墨画の作品づくりでは、海外のスケッチなどから、どのように水
墨画に描かれたかの実例が6点示されている。しっかりとしたスケッ
チが必要なことがわかる。

描法の基礎 ◎スケッチの楽しみ◎描法の
基礎 用具/四君子◎花の入門画法 ◆水墨画制作のポイント ◎風
景との出会い◎構図◎水墨画の作品づくり◎上達のポイントなど水墨画の著書多数。

はやし・ほうしん。大阪市生まれ。武蔵野美術学校西洋画科中退、
日本画に転向。大阪市立美術研究所日本画部に入所。関西総合美術展
に16回連続入選。大阪美術協会展で市長賞・協会賞受賞、同協会委員
東京セントラル美術館日本画大賞展・銀座大賞展入選。全国水墨画協
会理事。朝日カルチャーセンター水墨画講師。芳辰会主宰。

2006/08/08(火) 大阪市立美術研究所・雑感 65
上住 雅恵 http://www.venus.dti.ne.jp/~uezumi/2000.html

神戸市に生まれる。現在 芦屋市在住。

1965-68 松井 正 氏 に師事

1966-68 大阪市立美術研究所に学ぶ

1967-68 伊藤 継郎 氏 に師事

1971 児童画教室「雅こどもアトリエ」(現 芦屋児童美術教育研究会)開設

1972 京都市立芸術大学美術学部西洋画科卒業

1972-74 小林聖心女学院、近畿大学付属小学校講師

1993 京都市立芸術大学美術教育研究会にて講演、「児童画の世界」

1998 京都市立芸術大学美術教育研究会発行「美」に 論文発表、「児童画の世界」

1999 京都市立芸術大学美術教育研究会にて講演、「ニューヨークで開催した震災児童画展」

現在 芦屋児童美術教育研究会 主宰

*** 渡欧4回、渡米10回、


「芸術は見る者にとっても、創る者にとっても、果てしない実験である」。こんな言葉を聞いたことがあります。ともかく芸術は奥が深く永遠だということでしょうか。アートの仕事に関わって10年余、数多くの芸術に触れてきました。とりわけ美術に関しては内外の数多くの作品を鑑賞してきました。また多くのアーティストに出会うことができました。その中で私が継続的に作品を見続けている二人の知人アーティストを取り上げてみます。ジャンルも作風もまったく異なりますが、ともにたゆみなく挑戦する心意気は共通です。
大震災児童画展を内外に巡回

神戸の個展で観客らに自作について語る上住雅恵さん(左端)

作品「Air Santa Fe-2」

作品「Cafe Santa Fe」
上住雅恵さんの新作を紹介する個展「Santa Fe」が先月、神戸市のギャラリー島田で開かれました。この展覧会には、ニューメキシコ州のサンタフェを題材にした作品を展示していました。これまでと同様にドアや窓を描いた組み作品に加え、サンタフェの特徴でもある日干レンガ造りの家屋などが壁面を飾っていました。
上住さんはこの10年、こだわりのテーマを追求しています。家のドアや窓、街路の木々などを小さなサイズの油彩画に描き、それらの連作を壁面に配置して、個別的にも、全体的にも見せる手法です。黄色を基調にした作品は、一見単調なように見受けますが、作品に囲まれた空間に身を置くと、安らぎと物語性を感じるから不思議です。
上住さんを知ったのは1995年にさかのぼります。その年9月から3か月、ニューヨークなどアメリカの6都市で「阪神大震災児童画展」を開催しています。震災1年目に地元の芦屋市でも公開した際に、会場に出向きました。「子どもたちの目に震災がどう映ったのかを伝えたかったのです」と語る上住さんの取り組みに注目しました。
上住さんは神戸市に生まれ、京都市立芸術大学美術学部の西洋画科を卒業した後、画家活動を続けるかたわら、児童画教室にも力を注いでいます。1995年の震災で、子ども向けの絵画教室のアトリエが半壊したのでした。
約3か月後に再開した際に、まず思いついたのが被災体験を絵に描いてみてはとのことでした。子どもたちは、倒壊した巨大な高速道路のわきを延々と歩く姿や、給水車から配水を受ける市民らの表情をリアルに捉えていたのです。
内外の巡回展や震災遺児支援のポストカードの制作などチャリティー活動も実施しました。震災後に取材旅行したニューヨークで様々な民族が生き生きと活動している姿に接して勇気づけられたといいます。そのニューヨーカーたちに子どもらの絵で頑張っている様子を見てもらいたいと思ったのが児童画展の発意です。
ニューヨークで個展重ねる

ニューヨークの個展会場で仲間らとくつろぐ上住雅恵さん
それがきっかけとなり、1997年以降、毎年のようにニューヨークで上住さん自身の個展を開くようになりました。今年も5月に3週間にわたって、一連のサンタフェの建物などを展示しました。上住さんにとって、アメリカが創作意欲を駆り立てる場であり、発表の場としても定着したようです。
女性が単身乗り込んで勇気ある行動と思えますが、いつも突然に、楽しげにニューヨークでの生活ぶりや写真なども添えてメールが送られてきます。

2006/08/07(月) 大阪市立美術研究所・雑感 64
★大阪市立美術館:開館60周年記念特別展「美しの日本」より

最近、ここに書く文章が「悲憤慷慨調」になってしまって、自分でも少しいやになっている。けれども、この展覧会は、よかった。残念なのは、期間がとても短いので、もう終ってしまっているということくらいだろう。とくに、ATCミュージアムと前後して見に行ったからかもしれないが、ここでは、展覧会あるいは美術館には一つのポリシー(理念)が必要なのだというあたりまえの事実を再確認させられてしまった。

大阪の天王寺にある大阪市立美術館は、日本でも有数の歴史のある美術館である。震災や恐慌の影響のために美術館建設は大幅に遅れて1936年になったものの、その前身をたどれば、1919年の「大阪市民博物館」、1903年の第5回内国勧業博覧会における「美術館」、さらには、1875年の「物品陳列場」(「美術館」の設置は1888年)にまでさかのぼることができる。もっといえば、「今からおよそ1400年前にこの地に建立された四天王寺には、奈良時代には、聖徳太子の生涯を壁画に描き、それを絵解きした絵堂があった」。美術館側の説明によれば、これは、本格的なギャラリーとしては日本でもっとも早いものであり、「日本の美術館のはじまりは天王寺にあった」のである。また、戦後すぐの1946年には、美術館内に「市立美術研究所」が設置され、実技指導が行われると同時に、学芸員による美学美術史の講義も行われていた。生活さえも困難な状況下での「芸術」に対する市民の渇望というニーズにみごとに即応してみせたこの事実も、もっと知られていいことだろう。

その大阪市美が開館60周年を迎えて、所蔵品や寄託品のなかから名品約500点(国宝5点、重要文化財62点を含む)を選び、12のコーナーと「サロンルーム」に分けて展観した。サロンルームは、「名品に囲まれた憩いの場」「市民の応接間」というコンセプトで構成され、大きなテーブルとソファが置かれた広い部屋。ここでは、美術館のコレクションを代表する作品が何点か展示されると同時に、60年間の展覧会カタログや所蔵品図録をゆっくりとながめることができる。また、各コーナーは、「中国の書画:筆と墨のこころ」「中国の仏像:永遠の祈り」「中国の工芸:精緻の技巧」「日本の工芸:贅を尽くす調度」「日本の仏像・仏具:祈りと儀礼」「日本の仏画・経典:祈りの空間」「肖像画:語りかけるまなざし」「花鳥画と風俗画:いろどりとにぎわい」「光琳資料と琳派の芸術:着想とデザイン」「江戸明治の工芸:てのひらの芸術」「近代日本画:ぬくもりと洗練」「近代洋画:情熱のゆくえ」と題されていて、それぞれが独立した一つの展覧会といってもいいくらいの充実ぶりだ。まともに鑑賞していると一階だけでへとへとになってしまう。とても一日では見切れなかった。

各コーナーの中のどこがおもしろいのかということについては、人それぞれだろうが、わたしは、江戸や明治の工芸がいちばん楽しかった。かんたんにいえば、ここには「根付」と「印籠」をはじめとする、当時欧米で人気の高かった蒔絵のコレクション(市美所蔵のカザール・コレクション)がずらりと並んでいる。もう20年近く前に、最初にヨーロッパに行ったときに、大英博物館の日本のコーナーに根付がたくさん展示されているのを見て、あきれはてたことがあった。しかし、時代のちがいなのか年をとったせいなのか、それとも、救いがたいまでに趣味が欧米化(と同時に通俗化)してしまったせいなのかわからないが、今回は、このきわめて非芸術的なはずのちまちまとした職人芸を、つい一つひとつぜんぶ見てまわってしまった。ひょっとしたら、最近、アフリカやオセアニアの工芸やエアポートアートの意味についていろいろと考えているということも大きく影響しているのかもしれない。
 また面白いのその美術館の地下が美術研究所になっていて、約百人ほどの生徒がデッサンを学んでいることである。創立者は赤松輪作でそこより佐伯祐三など多数の絵描きなどを輩出していることである。
 大原からは直接的に絵描きは出てないよね。

2006/08/05(土) 倉敷・美観地区・花七夕祭り。
倉敷美観地区では、炎天下の中、学生ボランティアなどおよそ100人が七夕飾りの運搬や飾りつけなど準備に追われていました。きょうは、あさから強い日差しが照り付けましたが美観地区を訪れた観光客などが涼しげに風に揺れる七夕飾りを眺めていました。また、倉敷川周辺には、美術作家の眞板雅文さんが「水」をテーマに制作した七夕飾りが設置されました。川面からは、制作した巨大なロウソク立てが12基突き出ています。あす夕方5時からのオープニングセレモニーの後ロウソクが灯され、美観地区一体には、幻想的な景観が作り出されます。くらしき花七夕祭は、あすとあさっての二日間倉敷美観地区一帯で開催されます。
<あす予定されているエリア内の夏祭り>
水島商店街一帯では、今年50回目を迎える水島港祭りが開催されます。総社市では、雪舟フェスタ玉野市では、玉野市民祭りが開かれます。児島公園では、児島地区恒例の盆踊り大会「どんかっか」が開かれます。倉敷スポーツ公園イベント広場では、中庄夏祭りが開かれます。 

以下のアドレスをコピーして花七夕を楽しんでください。

http://www.kurashiki.or.jp/image-center/hanatanabata2003/hanatanabata2003-01.htm

2006/08/04(金) 大阪市立美術研究所・雑感 63
 こういう回想録を書いていると「大阪美術研究所」は変わった人物か多いですね。と問われる事がある。勿論、立派な絵描き、芸大の教授など多く輩出しているが、私の好みで書かないだけである。
 私は人生も絵も曼荼羅だと思っている。最近は偏差値とか、一本化とかで「人間」を振り分ける社会が嫌なのである。その点、「大阪美術研究所」は若い者から、片足棺おけに突っ込んでいるような人も生徒にいる。オカマもいる。市会議員、イラストレーター、坊主、声優になった人もいる。居ないのは幽霊と河童ぐらいと自負している。次の方もここ卒業の人ですよ・・・
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長野ひろかず

昭和7年大阪市生まれ。大阪市立天王寺美術研究所、日本通信美術学園指導部長を経て絵本作家に。創造展受賞。代表作として、NHKでアニメ化された『ひとりぼっちのライオン』(福音館)、『なにをたべてきたの?』(佼成出版社)、『おじぞうさま』シリーズ(チャイルド社)、『くまたんのはじめて』シリーズ(小峰書店)などがある。
 ここまでが普通だが実は有名なお医者さんでもあるのだ。
福島県立医科大学医学部附属病院薬剤部では、子どものうちから薬の正しい飲み方を教育していけば、薬が引き起こす医療事故を防ぐことができるという考えのもとに、10年程前からその啓蒙に取り組んおられるのだ。自分たちでオリジナルのテキストをつくり、そのテキストには絵本が一番いいそうである。
 そして先生は曼荼羅の特徴を何度も力説していらっしゃる中に、多様性、全体性、調和性があって健康にもなるし、いい絵も描ける。また先生は、流動性、この世はつねに流れているもので、変化するということが曼荼羅のダイナミズムであると強調し、今の社会や人間はそれが欠けているからおかしくなるのだと、ね。
 確かに今の世は「AはAでないものとは違う」、いつでもAはAだと。排中律は「AとAでないものの間はない」そういう世界観に立っているから、この人はAが一番正しいと思っている。そうすると、Aでないものはみんな排除する。
 曼荼羅はそれとは違う論理に立っているだな。とおっしゃるのですぞ。解るかな・・・・



2006/08/03(木) 大阪市立美術研究所・雑感 62
激しすぎる「連なり」への欲求 ・田中敦子
 田中敦子は、戦後の日本美術を語る上で欠かすことができない「具体」の美術運動の中で、やはり欠かすことのできない作家の一人として知られています。
 初期作品に田中の出世作「ベル」がある。この作品は、スイッチを押すと展覧会場に設置された二十個のベルが足元から会場の奥へ向かって次々と鳴り、一番奥まで届くと、逆にベルが鳴り戻ってくるというものです。
 次の「電気服」。1956年に発表されたこの作品は、9種類に塗り分けられた管球や電球が全身を覆うように配列された服で、これらが「ベル」と同じ要領で不規則に点滅し、さまざまな色の光が浮かび上がるようになっています。
 「感電の可能性も」という註釈はつくものの、実際に着用することができるこの作品は、田中敦子作品という意味を超えて、「他人のやらないことをやる」ことをもって良しとする「具体」の美術運動の代表的な (少なくとも「具体」らしさがよくわかる)作品として知られるようになっている。
 彼女は、むやみと色数を増やしたり画面を分割したりという若干の迷いの期間をすぎると、同心円を使った丸の大きさでリズムをつけながら、赤を基調にした原色がハーモニーを奏で、細くも力強い多くの線がそれらを有機的に結びつけるという、さらに発展させた作品群を産むことになる。それらは、脳細胞のニューロンの結びつきを想像させるようなというべきか、触手を伸ばしているようなというべきか、ともかく激しく連なり を求める線の緊張感が独特で、その緊密なきめこまやかさが、なぜか安心感を感じさせてくれますよ。

 そして、この間、いくつかの国際展への出品や国内での受賞など、田中敦子の評価は高まっていきます。と同時に、具体のリーダーの吉原治良との志向の違いが目立つようになり、1965年には具体を去っていきます。ここまでが、主催者のいうところの「いつも具体の会員という枠内」で紹介されていた田中敦子の10年です。
 その後も、現在に至るまでの約40年間、田中敦子はずっとこの丸と線の組み合わせによる絵画を描きつづけています。それを、一貫したテーマというべきなのか、そこから逃れられなかったというのか、評価の仕方 は様々でしょう。ただ、このスタイルは、明確かつ明快に田中敦子作品のオリジナリティを表わしており、あえて違うスタイルを志向する必要がなかったことも確かです。
 しかし、それだけに、個々の作品の「違い」は、素人目にも明らかである。
 例えばそれから個々に描かれた丸をつなげる役割をしていたはずの線はなおさらに太く乱れたものになり、むしろ画面上におおいかぶさっているように見えました。あるいは、基本の丸が ほとんど見えなくなるまでピンクや黄色、空色の太線で塗り込められた作品もありました。これらの作品は、どう見ても「連なりを描いた」というよりも「連なることへの絶望」であり、「新たな展開」というよりも「過去の否定」であるようです。。
 この時期の田中敦子は個展中心の活動に変わるものの、「美術界においては大きく 取り上げられず、具体時代と同じほど注目されたとは言い難い」という状況にありました。「具体」脱退直後は精神的にも追いつめられていたともいいますが、作家としてのダメージはさらに長く深かったようで、この時期の作品を見るかぎり、美術界が取りたてて冷たい反応をしたとも見えなかったのでした。

 もう、立ち去ろうとした時また「ベル」のけたたましい叫びが、「具体の吉原に挑戦しているよな」悲鳴に聞こえるのは私一人だけであろうか。

田中敦子 たなか あつこ
008
1932 大阪生まれ
1951 京都市立美術大学退学後、入学前から通っていた大阪市立美術館付設美術研究所に通う
1953 0会に参加
1955 具体へ参加
1965 具体美術協会を退会
1969 奈良県明日香村に移住
国内外で個展・グループ展多数。

2006/08/02(水) 大阪市立美術研究所・雑感 61
 久しぶりに大阪美術研究所へ行って見ると、天王寺屋所長よりお呼びだしだ。
「こりゃ、きっとお小言だぞ」と思って所長室に入ると「君は絵画部か?彫塑部?どちらの希望かね」のお言葉である。

俺はしばし訳がわからず呆然としていると「君は4月1日つけで人体部を卒業しておる、・・・・でどっちに進むのかね?」のお達しであった。東光会の家永喜三郎先生、行動美術の小林武雄先生、日展の松田忠先生、新世紀会の天王寺屋 卓先生、他の先生方は悪いけど失念したが私に票を入れてくださったのだ。
 ああ、これで念願の人体部を卒業したのだ。
 「勿論、絵画部に進みたいと思います」と答えておいたが、ここまで来るのに九年かかっている。しかし、考えようによっては同期の小林はまだ人体部から進級しておらないし、ひどいのは十数年ここに通って、前期のままでいる者もおるのである。
 もっと驚いたのは人体部終了証を見ると・・・なんと、なんと、俺で33人目ではないか。一号を佐伯祐三とすると俺まで33人しか選ばれていないのである。
 誰かが言っていたが人体部で京都芸大、そこを卒業すると東京芸大に入れるよ、と言っていたのは本当だと思った。
 そして小林は二・三年でとんとん調子で進級したが五年人体部で足止め喰っているのは、やはりデッサンでさえ人生経験とイイオカ・マヨ氏が言っていた「ヘルマホロダイト」の意味もおぼろげにわかるような気がした。
 しかし、絵画部に入って何を描いていいのか、わからずがむしゃらに描いたのが「ローソクを持つ自画像」が初期作品になるであろう。何、熊谷守一氏の「拝火する自画像」を真似たものである。

 とにかくその日は小林を初め、長瀬、藤田、小熊良子、大塩曜子、堀江千恵さんなどが祝ってくれたのを記憶している。

 懐かしい想い出だ・・・・

2006/08/01(火) 大阪市立美術研究所・雑感 60
詩人・橘安純は大阪の天王寺公園に小屋を建て、たまに日雇い仕事をしながら生活しています。「野宿生活」をテーマに詩を作り、朗読しています。初めてこの公園に ブルーシートのテントを張ってから今年で6年目になる。今は拾ってきたベッドのパネル等を使って、開閉式天井のある木造の小屋になっている。オオカミに 襲われても大丈夫だ。以前、ダンボールの家を蹴られ、テントの支柱を引っ張られ破壊されたことがある。周囲に緑は多いし、家賃は払わなくて良いし、一戸 建てだから夜間うるさくしても文句来ないし、アウトドアー生活を満喫している。難を言えば公園当局が一年に何度か「消毒、清掃」を名目に一度小屋を解体 しなければならないことだ。公園当局はバリケードを張り新しくテントを作ることは許されないが、現在居る人については黙認してくれている。しかしそれも 今年度までで、その先どうなるかは分からない、と言う。

野宿生活 春夏秋冬

    夏
ダンボールどろどろ布団しめった青い雨
雨ふられダンボールハウスとけた
地球に寝てるから雨ふって川の中

一つずつ はずかしさ消して路上に寝る
お恵を受けることまったく遠慮しなくなり
腹へったギラギラ太陽 水をガブガブ飲む
炎天炊き出しの長〜い列だれもしゃべらない

見知った顔だんだん陽にやけてきた
見知った顔だんだん疲れてきた
見知った顔だんだんしわが深くなる
見知った顔    生命力が弱くなり

ごみ ほこり 汗しょんべん人間の臭い

生きている星空ひとる公園野宿
生きている星空ひとる公園野宿

    秋
野宿者のうえ風ふきぬけて落ち葉ちる
木の葉ちる その日暮らしが長いので

路傍にて命よせあいやっと生き
見て見ぬふりされ 路傍の石となる
路傍石になれきれず 時に反撃

横になりほっとするダンボールの我家
カラス鳴きサイフからっぽ秋の暮れ
夕焼けに捨てたつもりが涙する

風ふきぬけるけど仲間いるから道端に寝る
風ふきぬけるけど仲間いるから道端に寝る

    冬
北風みんな速足 どこに帰る
   私の帰るところはここ道端
寒さにふるえ夜中じゅう歩き回る
   夜が明けていよいよ寝入る宿無し

いまから春を待っている
暖かい冬 死なないでいる
冬支度できないまま冬すすんでく

あの人はこの冬を越せるのだろうか
餓死凍死雨に打たれて衰弱死
酒あびて凍死した友 安楽死
死ぬな 生きて生きて生きろ

あてなくあるいて一日くれて
何もかも重たくなって歩く冬

冬銀河 百円玉の重さ知る
冬銀河 百円玉の重さ知る

    春
陽がさして小鳥さえずり覚める朝
朝の公園煙たなびく
   七輪で木切れ燃やして米を炊いている

人間も使い捨てになり桜ちる

もったいないを拾って生きる
あればあり なければないで今を生き
それなりの一生懸命生きている

うまく立ち回れず無宿に生きる 青い空
うまく立ち回れず無宿に生きる 青い空


ホームページを友人に作ってもらった。自分でもブログを開設したが、インターネット喫茶でしかパソコンにさわれず、書き込みが思うようにはいかない。使 わないノートパソコンがあれば譲ってほしいという。 何方かおられますか?

連絡先 〒556-0002大阪市浪速区恵美須東3-4-36フェスティバルゲート4階cocoroom気付


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