美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2006/07/04(火) 大阪市立美術研究所・雑感 36
今日の意識に於ては従来の美術は概して意味あり気な風貌を呈する偽物に見える。

うず高い、祭壇の、宮殿の、客間の、骨董店のいかものたちに袂別しよう。
これ等のものは絵具という物質や布切れや金属や、土や、大理石を人間たちの無意味な意味づけによって、素材という魔法で、何らかの他の物質のような風貌に偽瞞した化物たちである。精神的所産の美名に隠れて物質はことごとく殺戮されて何ごとをも語り得ない。
これ等の屍を墓場にとじこめろ。
具体美術は物質を変貌しない。具体美術は物質に生命を与えるものだ。具体美術は物質を偽らない。

 1955年、吉原製油の若旦那・吉原治良が具体美術協会を高らかに宣言する。京都市絵画専門学校卒業後、新制作協会展に出品していた白髪一雄は、腐り切ったアカデミイズミに飽き飽きしていたところで、即、大阪美術研究所入所と同時に具体美術協会に参加する。以後、ASADA ・瑛九 ・オノサト・トシノブ ・草間 彌生 ・斎藤 義重 ・彦坂 尚嘉 ・安喜 万佐子 ・山口 長男 ・李 禹煥らと共にのびのび制作活動に入るのである。一番驚かしたのは筆を使わず手や足で描くことを始めだしたことで、綱にぶら下がり、板を筆がわりに足で描く作品を連作。この方法により白髪は、「速度感のこもった行動の軌跡」を表したかったのだと言う。確かに、本作品の絵具のうねりと盛り上がりは、あたかも巨大な生物が激しくのたうつような迫力ある効果を生んでおり、画面上には、まさにキャンバスに挑みかかる作者の「生(なま)」な動きが、そのままとどめられ、見るものに生への衝撃と感動を与えている。
略歴 1924年 尼崎市に生まれる
1948年 京都市絵画専門学校卒業大阪市立美術研究所に学ぶ
1950-54年 新制作協会展
1955-72年 具体美術協会に参加、第1回-第21回具体展、具体の全展覧会に出品
1959年 第11回プレミオ・リソーネ展(リソーネ市、ラ・ブソッソラ画廊)メタモルフィスム展(パリ、スタドラー画廊)
1962年 個展(東京画廊)
1963年 現代絵画の動向展(国立近代美術館京都分館)第1回ローザンヌ国際画商展(ローザンヌ、カントナル・デ・ボザール美術館)
1964年 個展(東京画廊)、長岡現代美術館会館記念展(長岡現代美術館)
1965年 第8回日本国際美術展 優秀賞受賞<'67年第9回展>、現代美術の動向-絵画と彫塑(国立近代美術館京都分館)
1966年 第1回ジャパン・アート・フェスティバル('67まで全米4か所を巡回)
1967年 第2回ジャパン・アート・フェスティバル(全米を巡回)
1969年 第1回ヒロシマ・ルネッサンス美術展(広島県立美術館)、形態化の直感的抽象の空間展(ミラノ、アルテ・コルティナ画廊)
1970年 ヒューマン・ドキュメンツ'70(東京画廊)
1971年 戦後美術のクロニクル展(神奈川県立近代美術館)
1972年 抽象の空間II展(ミラノ、アルテ・コルティナ画廊)
1973年 個展(東京画廊) 戦後美術の展開-抽象表現の多様化(東京国立近代美術館)、白髪一雄展-12年の作品から(東京画廊)、1960年代選抜絵画廊(パリ、スタドラー画廊)
1975年 現代美術四半世紀展(東京セントラル美術館)兵庫の美術家 抽象の4人-須田剋太・津高和一・元永定正・白髪一雄展(兵庫県立近代美術館)
1981年 現代日本の美術(宮城県美術館)1960年代-現代美術の転換期(東京国立近代美術館)
1984年 1960-70年代の洋画と「平面」の新しい動向 現代絵画の20年(群馬県立近代美術館)、元永定正・白髪一雄展(和歌山県立近代美術館)
1985年 ヒューマン・ドキュメンツ(東京画廊)、 個展(兵庫県立近代美術館・絵画企画室)、現代美術の40年(東京都美術館)
1986年 現代美術・その先駆者たちと現在(尼崎・つかしんホール)、現代の白と黒(埼玉県立近代美術館)、個展(パリ・スタドラー画廊)
1987年 個展(マルセイユ、ヴィエイユ・カリテ・センター)、 大原美術館所蔵作品展20世紀・世界の美術(三重県立美術館、滋賀県立美術館、福島県立美術館)
1988年 アンフォルメと抽象絵画展(東京、イノウエギャラリー)、 個展(ベルリン、ゲオルグ・ノーゼルファー画廊)、
1989年 アート・エキサイティング'89(埼玉県立近代美術館)、昭和の美術(東京国立近代美術館)





2006/07/03(月) 大阪市立美術研究所・雑感 35
 「紀州犬の遠吠え」という言葉がある。犬の中でも一番、狼の血を多く持っていて、粗野であるが目的に向かって邁進する紀州人の性格を現すときに用いる。確かにここ出身の武 内 宿 禰、徳 川 吉 宗、南 方 熊 楠 、松 下 幸 之 助、佐藤 春雄氏などあげていけばきりがない。
 ここで紹介する栗山豊もここ出身で確か大阪美術研究所は私の一期下で二年ほどで止め、東京の美術学校へいくのだが、血に狼を抱いている彼は似顔絵で一流の銀座に殴り込みををかけるのだ。俺も美術学校九年行き、教えて貰ったのはセックスだけだったから、その気持ち良く解かり銀座、新宿、上野公園、あげくは全国の祭りで一緒に似顔絵を描き破廉恥、痴愚、朦朧、卑猥等の生を踊り続けた仲だったのである。
勿論こんな馬鹿げた事ばかりしていた訳ではない。彼は常にラジカルで例えば奇抜なブリキ彫刻で知られる前衛芸術家・秋山佑徳太子等と友達であり、その彼は若い頃、二宮金次郎の格好で街頭に立ったり、グリコのランニングシャツ姿で広場を駆けてみたり、突飛なハブニング活動で勇名を馳せ、70年代には政治のポップアート化目指して都知事選に山高帽で立候補するのだ。その時の選挙ポスターを手掛けたのがこの栗山で、そのポスターは実に驚くなかれアンディ・ウオーホル張りだった
訳だが、彼は別に単にウォホールのディタレントではなく、ウォーホルに会いにアメリカへ行って、その体験談を本に纏めているのである。また彼は[ポートレイト]と言う異色人物ばかり集めたニガオエ集を出版したり、「聖教新聞」には時の有名人の似顔絵とコラムを連載していた。、と同時に「肉体と概念の冒険」の名のもとに日本はもとより世界を波状移動し、彼のハガキと写真で世界のストリート・アーチストを知るようになるのである。また昨今は彼の仲間と共に「東京零産倶楽部」を発足させ季刊誌であったがネオ・タダ的新聞を発行。前衛芸術家や異色芸術家に送り続けるのである。
 しかし、期待している矢先、彼は逝った・・・・
それを残念に思うのは彼の生き様は、作品や作家いう安穏とした連中への挑戦であり、体制べったりの芸術という終焉に立ちあっているのだいう紀州犬の遠吼えであったからである。しかし俺にすればその終焉の向こうに、まだ明確に名付けられていない作品や作家に代わる何かが現れてくる待望の矢先だったから・・・。

秋山祐徳太子談・・・
栗山豊さんの訃報が入った。まさかとは思ったが、何度も死線をきり抜けていたので予感はあったものの、その後連絡が取れず、気にしていたのだが。彼は確か和歌山県出身で、時々田舎からカラフルでポップなカマポコを送ってきてくれた。新宿にあった彼のマンションに泊めてもらったこともあった。板橋の葬儀場に行くと主だった友人たちが来ていた。なんでも彼は身内が無く、いとこの女の人が世話をしていたという。赤羽の方の病院に入っていたというのだが、我々も全く知らなかった。色々な事情があったと思うと胸が痛む。この日はなんと彼が尊敬してやまないアンディ・ウォーホルの亡くなった日と同じだという。二〇〇一年二月二十二日、世紀を越えた劇的な日である。帰りに白夜書房の末井昭さんたちと高田馬場で彼を偲んだ。酒が入って誰かが言った。葬儀場で、栗山さんとどこかのおばさんを間違えて、手を合わせてしまったそうだ。私は遅れて立ち会えなかったのだが、あまりにも似ていたという。なんともおかしな話だった。集まった人数は少なかったが、心温まるものだった。後日、青山の360°という画廊で彼を思う別れの会が行なわれた。彼が作ってくれた都知事選のポスターは遺作として永久に輝いている。今頃はウォーホルの似顔絵を描いているだろう。
 ヨウ! 男・栗山豊、見事な人生だった。
 合掌。


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