美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2006年7月
前の月 次の月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
最新の絵日記ダイジェスト
2010/05/12 大阪で昆布屋
2010/04/15 000000000
2010/03/08 次回は油絵を・・・・・
2010/03/04 浅田真央ちゃん
2010/03/02 遅くな諒としてください

直接移動: 20105 4 3 2 1 月  200912 11 8 1 月  200810 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200712 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200612 11 10 9 8 7 6 5 4 3 月 

2006/07/06(木) 大阪市立美術研究所・雑感 38
 私事で恐縮だが「なぜ、アンサンとこの子は絵が好きやねん」と尋ねられると、爺さんは「ワイとこは昆布屋でしゃろ、それで紙芝居の人がよくきまんねん」と答えていたのを想いだす。まだ私の小さい頃、片腕のない絵描きさんから「ボン、絵、やるわ」と言って貰った絵が怖い化物画で、その人が後の水木しげる氏とは知らなかった。私の近くに「阪神宣伝社」という会社があり、そこは紙芝居を制作していて、武内つなよし、辰巳よしろう、酒井七馬など錚々たるメンバーが揃っていた。その中に大阪美術研究所にいた徳南 晴一郎も加わるようになるのだ。
 大阪市北区南森町に生まれる。現在、大阪在住。本来の読み方は「とくなん」だが、戦時中「国難」と掛けて学校でさんざん虐められた悲惨な思い出もあり、また「十苦難」と意味が重なるのを避けるため、30歳のとき「とくなみ」と改めた。
8人兄弟姉妹の長男。幼稚園にあがる数年前にジフテリアを患い、下垂体性機能不全小人症を発病。このため身長140cmで発育が停止。戦時中は大分と福井の親戚の家に縁故疎開した。1953年、石森章太郎主宰の同人誌『墨汁一滴』に参加。大阪の高校を卒業後、知人の紹介で漫画家藤原成憲と知り合い、専売公社の宣伝活動に参加して街頭で漫画を描いた。同じころ、大阪市立天王寺美術研究所に研究生として在籍。しかし1955年に行き詰まりを感じて同研究所を退いた後、大阪の丸山東光堂から『影を斬る侍』『あらしの剣豪』を上梓し、貸本漫画の世界に入る。丸山東光堂の社主の没後、わかば書房から『笑狂四郎捕物控』シリーズを5~6点刊行したが、わかば書房でお家騒動が起きたのを機に上京を決意。このとき、上京の目的のひとつは、東京在住の医学者緒方知三郎東大名誉教授を訪れてホルモンの投与を受け、人並みに背を伸ばすことにあった。
1957年10月に上京。雑司が谷にあった手塚治虫の住居"並木ハウス"に居候していたこともある。緒方知三郎を訪ねたものの年齢を理由に治療不可能なることを告げられ、落胆する。原稿の売込にも失敗したため前途に絶望。手塚家を出て雑司が谷の別の下宿に移ってからガス自殺を図ったが、大家が元栓を締めていたため未遂に終わる。
その後、曙出版で原稿の売込に成功し、同社から『怪猫雪姫』『怪猫紅行燈』『忍法無惨帖』などを上梓。同じ時期に早稲田へ転居。このころ、曙出版専属漫画家の親睦会「+画人会」(ぷらすがじんかい)のメンバーに長谷邦夫、川田漫一、ヒモトタロウ、江戸川清、鈴原研一郎らがいた。
貸本屋からの返本が続いたため、市川誠一の筆名で『ひるぜんの曲』など青春現代物を執筆。やはり人気は思わしくなく、1962年夏から本名に戻って『怪談 人間時計』『怪談 猫の喪服』などの怪奇漫画を発表。このころ豊島区高田本町に転居。1962年12月に山原比奈子と結婚。しかし、神経質な徳南による執拗な叱責に耐えかねて妻が実家に帰ってしまい、まもなく破婚。
曙出版から『徳川家康』『豊臣秀吉』『伊達正宗』など戦国武将ものを上梓。しかしこれまた人気が出ず、生活に窮してエロ漫画を描き、成人向けの週刊誌に持ち込んだが不採用となった。とうとう仕事がなくなったため1963年6月に漫画家を廃業し、光映画現像株式会社に就職。このころ武蔵野市境に転居。
フィルム現像の手伝いをしていたが、全自動現像焼付機の導入に伴ってやりがいを失い自主退職。折あたかも母が病気で入院したため大阪に帰郷。しばらく生家のパン屋を手伝っていたが、大手製パン会社の進出で店が潰れたため、電気商工新聞社に就職。以後、印鑑のセールスや無線配車タクシーの手配の仕事など職を転々としつつも一介のサラリーマンとして過ごし、二度と漫画を発表することはなかった。ただし日曜画家として油絵を描き続け、1979年には創元会第38回展覧会に入選したこともある。油絵画家としての名前は徳南誠吾。
永らく忘れられた漫画家だったが、『怪談 人間時計』には10万円以上のプレミアがつくほどのカルト的人気を持ち、1990年代以降、若い世代を中心に再評価の機運が高まり、太田出版から続々と旧作が復刊された。
趣味は読書と漢詩とクラシック音楽鑑賞。夏目漱石や永井荷風を愛読し、ベートーヴェンを崇拝している。

余談だが私が「岡山に行く」と言ったら、臨終間際の爺が「岡山で困ったら西大寺の河本はんへいくんやで、うちとこと灰の取引があるから・・」と言って息を引き取った。
 この灰屋の河本屋が後の天満屋である。


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.