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2006/07/31(月)
大阪市立美術研究所・雑感 59
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倉敷美観地区の町並保存について
鶴形山のすそ野に開けた美観地区は、倉敷の歴史の原点であり、町並みはほぼ江戸時代と変わらない遺構を今日に伝えている。およそ400年以前はあたり一帯は海であり、鶴形山は「内亀島」とか「東亀島」と呼ばれた漁村であり、海運によって発達した村であった。 その後、倉敷は備中松山城の玄関港として、備中国の幕府支配地からの米や物資の集散地となり,水夫屋敷や船蔵屋敷が免税地とされるなどの保護をうけ、町は形づくられ栄えて来た。これらの町並みは、おおむね次のような経緯で保存が進められた。 ・昭和20年代 「倉敷を日本のローテンブルグにしよう」と町並み保存を最初に提唱した先覚者は、クラレ社長の故・ 大原総一郎。昭和13年(1938)ドイツに留学中、中世の古典的な町並みを残すローテンブルグ市に 魅せられたが、第2次世界大戦で焼失した。ところが、その後見事に元の町並みに復元し、町の歴史 を日常生活に生かしていることに大きな感動を覚えた。戦災をまぬがれた倉敷の町並みも,文化的な 遺産として後世に残すべきことを倉敷市出身の建築家浦辺鎮太郎らに提唱し,訴えられた。 ・昭和21年6月 大原総一郎が招いた柳宗悦(やなぎ・むねよし)の指導で岡山県民芸協会が設立される 昭和23年1月27日付山陽新聞 県民芸協会の外村吉之介は,倉敷の蔵造り民家を「観光風致地区」に指定するよう全国へ紹介にのり 出す。民芸という視点から町並み保存を訴えた。 ○倉敷の民家利用第1号は,倉敷民芸館で昭和23年11月開館、第2号は倉敷考古館で昭和25年11 月開館 ・昭和24年1月 倉敷町並み保存の第1回座談会が倉敷民芸館長外村吉之助ら地元の有識者によって開かれる。この 年、「倉敷都市美協会」が発足す。地域住民(有志)による町並み保存運動団体としては全国初 ・昭和24年10月号「朝日カメライギリス海軍大佐ジェームズ・エイ・ダウンズが撮った倉敷の町屋写真が掲載され,地域の人たちも認識しだす。 ・昭和25年2月イギリスの詩人エドマンド・ブランデンは倉敷民芸館にて「瞥見(べっけん)」という詩で倉屋敷の情景を詠む。 浦辺鎮太郎は、JAAのある対談で、「人間が歴史をつくるのではなく、歴史が人間をつくる」と言ったポール・バレリーの言葉を引用しながら、「建築家が作品の原因なのではなく、建築家というのは作品の結果なのであり、例えば、倉敷の『アイビー・スクェア』なんかでも、浦辺鎮太郎がつくったんじゃなくて、浦辺鎮太郎というのは『アイビー・スクエア』の結果なのである」と語ったことに感銘を受けたことを思い出す。 かつて「建築年鑑賞」という「賞」の審査に関わっていた私は、最終候補に残った浦辺鎮太郎の「倉敷国際ホテル」と菊竹清訓の「出雲大社庁舎」のどちらにするか迷った結果、内部の使われ方への細心な配慮には感心しながらも外観があまり好きになれなかった前者ではなく、「革新的」な後者に投票したのであるが、それにも拘わらずというか、それだからこそというか、先の浦辺さんの言葉には強い衝撃を受けたのである。 浦辺さんは、建築家として少しばかり道草を食ってきた、そのことが、独特な思考を持った建築家たらしめた面があるのではないか。京大を出てすぐに、倉敷紡績の営繕に就職、戦争中は飛行機関係の仕事をし、戦後はクラケン型プレハブ住宅をつくるためのコスト計算や工程管理など「技師」とし ての長い経歴を積んだということ、それに、倉敷の大原総一郎の庇護の下、倉敷という「自治的」な街に根を下ろして仕事をしてきたということ、それらのことが、その後1962年になって初めて独立した建築家浦辺錆太郎の強力なバックグラウンドを形成したものと見る。 まさに、浦辺鎮太郎は歴史の結果と自覚されたのであろうか。だからこそ「一建築家が作家意識なんかで勝手なことをやるのは見ておれない」とか、 「空理屈をこね回すヤツを見ると虫酸が走る」などと、平気で言ってのけるのである。 しかし、頑固な面だけでなく、温厚な人でもあった。道草を食ってきたことを「自分には要領が悪いところがある」と言っておられたが、しかし、その人生の中で一旦オリエンテーションを決めたら、何年かかろうとそれを変えてはならないとも言い、5年、10年という単位ではなく、30年という歴史的時間で考えるべきであるとも言っておられた。当然、孫の時代までである。
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