美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2006/07/29(土) 大阪市立美術研究所・雑感 57
人間というのはどいう運命にさらされるかわかったものではない。牧口一二氏の場合がそうである。大阪美術学校卒業後、グラフィックデザイナーで活躍中、難病に罹り、松葉づえを必要とする身になる。しかし、氏の凄さはその難病から得た人生を語り、訪問した小・中・高等学校数は1600校を超えるという。98年「朝日社会福祉賞」受賞。現在、NHK教育テレビ「きらっと生きる」にレギュラー出演中) 

氏は障害者運動をやって30年、時々「社会は変わりましたか」と訊かれるらしい。変わった部分といえば、まちに出る障害者が圧倒的に増え、それに見合うように設備もかなりバリアフリー化されてきたこと。ただ、社会や人の心のなかにある「障害者観」は変わらない。言葉にこそしないけれど、障害者を一人前として扱わない人は今も少なくない。たとえばタクシーに乗ると運転手さんが「どこ行くん?」と子どもに問いかけるように話しかけてくる。ぼくはわざと社会問題を話題にふったりしてね(笑)。
 介護保険ができた時、重度障害者の自立生活運動を通じてぼくらが訴えてきた価値観が多少なりとも活かされることを期待しました。ところが蓋を開けてみると旧態依然とした障害者手帳の等級の決め方とあまり変わらない方法で介護度の等級も決められている。具体的にいうと、「一人で立てますか」「箸を持てますか」なんてことをチェックするわけです。そんなもの、どっちだっていい。最も大切なのは、個人の能力ではなく、その人がどんな人間関係のなかで生きているのかということ。手伝ってくれる人がいれば、一人で立てるかなんてたいした問題じゃないんです。この一件で、社会は障害者がなぜ必死に「自立」を訴えてきたのかをまともに受け止め、考えようとしてこなかったことがわかりました。

 日本の法律は、基本的に人間を信じていないように思います。それが一番よくわかるのは、障害を理由に職業や資格取得を制限する「欠格条項」です。法律で「あれはいけない」「これもダメ」と縛りをかける。多くの人は「法律は人を取り締まるものである」と考えているんですね。しかし本来、法律は「人を育てる」ものであってほしい。
 イギリスやアメリカでは、障害があって運転免許が取りにくい人がいれば「どうすればこの人が免許を取れるか」と国のほうが考えます。日本では「障害があるから危険です。もし誰かに危害を加えたらどうするんですか」という言い方をします。1人のために全員が我慢したり負担をかけられたりするのが許せない社会です。けれど1人のために100人がこぞって負担するということがあってもいいじゃないですか。「なんか計算合えへんなあ。でもやってみると気持ちいいなあ」と思えるのが"人間"。一見、不思議なことや割に合わないことを合理性の名のもとにどんどん排除していくやり方は味気も面白味もないと思いませんか。

 黒人解放運動のキャッチフレーズ、「ブラック イズ ビューティフル」に感銘を受けて以来、あちこちで「ちがうことこそ、ええこっちゃ」と言ったり書いたりしています。部落解放運動では「同じ人間なのに、なぜ差別する側・される側ができるんだ」という問題提起をしていましたが、ぼくはどう考えても障害のある人とない人が「同じ」とは思えなかった。見かけはもちろん違うし、やることも違う。第一、人それぞれ能力が違うでしょう。だから「同じ人間なのに」と言った時に、どうしても障害者は漏れるんですよ。「同じ人間なのに」と主張する限り、いつまでたっても障害者は置き去りにされるという危機感がぼくにはありました。そこで「障害を個性やクセとして考え、それぞれの違いをしっかり見つめるほうがいいんじゃないか」と発想したんです。ところが主張し始めた当時は「差別を生み出す"違い"を認めるとはけしからん」と批判されました。今は逆に全体的に「まず相手と自分の違いを認め合うところから始めよう」という流れになっています。そうなると今度は「ドロドロした問題があるのにきれい事で片付けられそうな危険性を感じる」と批判される。言葉って難しいなとつくづく感じています。だけど"違い"から見つめ合って交流すると、お互いが深め合えるし、第一、裏切られることがないでしょう。一見やさしい言葉ですが、知的障害者や寝たきりの重度障害者と「健常者」の"違い"も生き方が違うだけ、同じように生きる権利があるという主張をこめているのです。

 障害者運動は重度障害者の自立を主張してきましたが、自立と孤立は違います。ひとりでなんでもできるのが目標ではない。生後間もなくポリオにかかり、足に障害のあるぼくは、そのことを体中で感じて生きてきました。子どもの頃、ぼくをいじめた子もいたけど、一緒に遊んだ子もいて松葉杖を隠されたぼくをおぶってくれたりしました。嫌なことを言う奴もいれば、助けてくれる人もいる。つまり人間はそんなに悪いものでも特別いいものでもなく、「そこそこ」なんだと子どもながらに知っていました。だけど困っている人は助けてもらったことを決して忘れないものです。だからぼくは子どもたちに話をする機会があれば必ず言います。「誰でもええから困ってる人がいたら助けて。親切にするのは当たり前やから、君はすぐに忘れるやろ。だけど相手はきっといつまでも覚えてくれているよ」と。それに人のために何かできるというのは、自分にとっての喜びでもあります。
 最近、体も力も一人前の中学生に地域の防災活動に参加してもらう活動が始まっているのを知り、とても共感しました。高校生や大学生たちは昼間は地域にいませんが、中学生は「あそこにお年寄りがいる」「隣りに車椅子に乗っているお姉さんがいる」など地域をよく知っているからすぐに駆けつけられるでしょう。とてもいいアイディアですね。
 障害者をはじめ「弱い」立場の人たちを排除するという考えは、人間が人間であることを放棄すること。いろんな人が一緒に生きるのが社会の自然な姿だとぼくは考えています。


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