美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2006年7月
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2006/07/27(木) 大阪市立美術研究所・雑感 55
 私が最初に絵を描いたり勉強したのが大阪であり、あの天王寺公園のなかの大阪市立美術館の地下の暗い研究所でした。
 そういうわけで大阪を中心とする京阪神にはこの修業時代の諸先生や先輩、同輩、また私を物心両面より支えて下さった多くの方がおられます。もっと勉強したいという気持から上京し、その三年後スペインに渡りましたが、その時勉強したゴヤ作品の模写を帰国と同時に松坂屋で展示してくれました。
 そのことが機縁で帰国後の第一回展ともいえる個展をすることになり準備してきましたが、なかなか思うような仕事が出来ず自分のグズさに腹を立てたりしているうちに早いもので帰国して二年半が経過、やっと最近自分では多少出来かけてきたと思えるようになりました。帰国後一番願ったことは、じっくりと腰を落ち着けた仕事「風土とそこに生きる人間」といったものに少しでも迫った仕事をということでした。
          *
 ところで、私が一番心配したゴヤ模写作品との併展については、併展することでかえって見る人に私の仕事に対する安心感を与えたようだ。また、私を支えてくださった人たちに少しお返しができたと思い、嬉しかった。それが私の自信ともなった。
 この時のオリジナル作品のうち、自画像「アラゴンを行く男」五〇号Pは新見美術館に所蔵されている。その他の作品は松坂屋の買い取りで人手に渡った。ゴヤの模写作品では、現在新見美術館にある一二〇号の婦人像「ラ・ティラーナ」も人手に渡りかけたが、松坂屋の方で「個人で所有するものではない」といって非売にしてくれた。

(中略)

 山岳列車と高山病

 南米ペルーの首都、リマ市には十日間滞在した。
 この間、目にしたのは中南米特有の貧しさというか貧富の差の激しさ。それに加えて物価高と非衛生さ。スペインでは感じたことがない失望感。リマ市に滞在中「こうして遙々とヨーロッパから回って来たが、今回の旅は私にとって間違いではなかったか。遠い国に来てしまった」という後悔の気持ちが続いたが、今さら、引き返すわけにもいかない。ここまで来たのだから、と元気を奮い起こし、一九七五年一月九日、国有山岳鉄道に乗車した。
 山岳列車は週三回、朝七時四十分に海抜七〇メートルのリマ市を出発し、かつてのインカ帝国の首都、クスコへ向けて高度差四千数百メートルを登る。
 初めてインディオたちと同席し、彼らと話したり、車窓に顔を寄せアンデス越えの景色に目を凝らした。私は初めての体験に緊張気味だった。列車は一体どうやって登って行くのか。峻厳なアンデスの連峰を頭上に見ながら切り立った断崖を列車はあえぐように行きつ戻りつ高度を逐次取って進む。
 高度千五百メートルを超えるあたりから私の失望感は吹っ飛んでしまった。それほどアンデスは新鮮で強烈だった。列車はさらに登って行く。海抜四七八一メートルのガラン駅(日本の富士山は三七五八メートル)の手前、チクリオ駅を通過するあたりの景は素晴らしかった。白雪の連峰と真っ赤な山々が連なる。その下に豊かな地下資源を埋蔵していると思われる赤さだ。スペインの山よりももっと赤くて美しい。山麓にはこの地方特有のリャマ(辞書を引くとリャマは「駱馬」)という大きな動物が白、茶、黒色の点の群れをなしている。列車に驚いて走り出す。それをインディオの牧童が追う。
 こんな標高三、四千メートルの厳しいアンデス山中にインディオたちは住んでいる。一体彼らはどうやって生活しているのだろうか。列車が停車する駅々には近くのインディオがジャガイモ、トウモロコシ、チーズ、果物などを売りに来る。停車中の列車を前に、ちょっとした市場が展開する。そこには生きた人間の営みがある。美しい絵を見るようだ。さらに加えて、彼らの売る物の値段はリマ市で私が知った価格よりずっと安く、これからの旅の不安感を消してくれた。
 今一つの不安は高山病だった。列車が海抜四七八一メートルのガラン駅を過ぎて下りに向かうころから車内を白衣の人が行ったり来たりしはじめた。枕のようなものを持っている。尋ねると酸素袋だとのこと。彼は特に小さな赤ん坊の容態に注意している。私は四千メートルを越えても何ともなかったので、自分の心臓は強いのだな、と安心して、酸素を吸う赤ん坊の様子を他人事のように珍しく見ていた。
 ところが、その私が急に目の前が白くかすみ、首を締め付けられるように呼吸が苦しくなった。寒気と吐き気を催す。深呼吸をしてみる。が、ますます苦しくなる。同席のインディオの親子に「白衣のドクトルを」と頼む。ドクトルは私の顔を見ながら「すぐよくなるよ」と言って酸素袋を私の口に当てた。「いっぱい呼吸しろ」。私は一生懸命吸っては吐き出した。おそらく何分もたっていないであろう。目の前が晴れ晴れとし、楽になってきた。ドクトルは「どうだ。もうよいだろう。誰でも最初はなるのだ。安心しろ」と言い、笑いながら「だが、もう一袋吸え」と、新しい袋と取り替えてくれた。大人で酸素袋のやっかいになったのは私一人だったので恥ずかしい気もしたが、気分がよくなり、別の車両に移っていたドクトルを捜して礼を述べた。「お前は日本人か」と尋ねる。この山岳列車に乗る日本人は珍しかったのだろう。終着駅に着く前に彼は「その後どうだ。多分頭が痛くなるだろうが、次第に治るから心配するな。では、よい旅を!」と言ってくれた。
 こうして世界の屋根、アンデスを無事越えた。インディオたちの生活に一歩一歩入って行くにしたがって、私の中にものすごい意欲が湧いてきた。「やって来てよかった。間違いではなかった」という感激が身体中を熱くした。後は略します。

画家・藤井哲氏のホームページです。
http://www.bihoku-minpou.co.jp/fujii1.htm


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