美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2006/07/25(火) 大阪市立美術研究所・雑感 53
一九六四年三月に、彼は初めて個人誌『漂泊』を出す。この個人誌の目次欄に支路遺は、ランボーの「見者の手紙」から、いくつかの言葉を引用して載せている。<詩人たらんとする者の第一歩は、全面的に自分自身を知るにある>、十九才の早熟な若者が、個人誌にランボーを記すのは自然のなりゆきかもしれない。私が十九才で個人誌『迷える羊』を出して二年後に支路遺は、私と同じ歳で『漂泊』を出した。だが私は自分の個人誌にランボーではなく宮沢賢治を記している。漂泊と迷える羊という近似した心の在り様ではあったが、選びとった献辞が異なるように、やがてそれぞれの生きざまは違ってくる。支路遺はこの個人誌を出してから間もなくして、突然大阪に帰ってくる。そして個人詩誌『漂泊』は、『漂泊から』に誌名を変更して刊行されることになる。いま私の手元に残されている個人誌『漂泊から』は第六号だけだが、『漂泊』に掲載された作品とくらべるとこの六号に載っている詩はダイレクトに詩集『疾走の終り』につながっていく走法を身につけている詩群である。そしてこれらの活動を経て、『他人の街』(一九六六年)が創刊されることになる。そしてすくなからず、『他人の街』に影響を与えたのが『凶区』であった。天沢退二郎、鈴木志郎康らが同人の先鋭的な雑誌だった。『凶区』を手にした支路遺は嬉々として私に電話してきた。薄い雑誌だったが、中身はまるで機関銃が詰まっているような感じを受けたのを覚えている。その後鈴木志郎康は『他人の街』にたびたび原稿を寄せることになる。支路遺が、「映画論」や「都市論」に筆をすすめるのも、このへんの影響だった。本来彼は詩論を振り回す詩人ではなかった。それは支路遺にかぎらず、当時の大阪の詩の書き手は、おおかたそうだった。ある日、彼のところに東京から二人ほど詩人が訪ねてきていた。私も同席していたのだが、支路遺も私も彼らの理論についていけなかった。二人がかえった後、しみじみと支路遺は言った。「俺に欠けているのは、やっぱり理論やなぁ…。あいつらみたいには喋られへんもんな!」その二人の詩人が誰だったのかは、まったく思い出せない。それにしても、なぜ『他人の街』だったのかをは支路遺に問いただした記憶がない。尻無川をはさんで、同じように中小企業が軒を並べている下町に住んでいた私たちにとって、それはかならずしも愛すべきわが街ではなかった。埃っぽくて一日中騒音が絶えない、無神経で無頓着な町…。たしかにそこに暮らす人たちは、お節介好きでお喋りで、愛想がよくて気軽な人々だった。だが、私も支路遺もどこかで、そこから抜け出したいと必死だった。孤独は寂しかったが、嫌いではなかった。寂しがりながら嫌いではない孤独をぶらさげて、理屈よりも先に言葉が噴き出していった。会う理由がなくても二人は頻繁に会った。会えば孤独が癒されていた気がする。会えなければ電話で一時間も喋っていた。けれど何故か彼は寡黙だった印象が拭えない。当時、彼よりも私の方が無口だった。人と喋れない病気だったからだ。それでも彼とは必死に何かを伝えあっていた。詩集『疾走の終り』が出た直後ぐらいに、NHK教育テレビで、「疾走の青春」と題した一時間の特集が組まれた。その録画撮りの日、「志摩、おれ、ひとりで行くの嫌やから一緒に行ってくれ…」と頼まれた。その日私は終日、スタジオでの録画撮りに付き合った。支路遺耕治にとって『他人の街』とは、いったいなにを指し示すものだったのだろう。彼とは飽きることなく街を徘徊したのだ。通天閣とその界隈や美術館横の半蔵門など、よくスケッチに歩いた。また関西のジャズ喫茶はことごとく回ったのではなかったか。この辺については、別の機会に論を譲ることにする。支路遺との交友の思い出はつきることはないが、いろんなことが錯綜しているので、もうすこし整理しないと書けないところもある。また彼を詩人・支路遺耕治として捕らえることと、絵を描き続けた川井清澄として綴ることとには視点の持ちどころが違うので、いくつかの章に分けて書く必要もありそうだ。いずれにしても今回は、詳細な考証は省いて走馬灯的に書きつづるしかなかった。ただ彼との出合いが絵で始り、最後に彼と会うのが昨年五月の大丸・心斎橋店での私の個展会場だったことと、一九八九、九○、九一年の三回にわたって彼の個展のプロデュースを私が手がけたことなどを考えると、最後まで絵を描きつづけたいと願った川井清澄こそ私が綴らねばならない友の姿かもしれない。けれど残念なことに、私は彼の最期の個展を見ることができなかった。私の個展の日程と重なっていたためだが、彼が癌に犯されていたことを知っていれば、無理をしてでも出かけたことだろう。それが心残りではある。
 彼は一見、破天荒で攻撃的で破壊的な表情を漂わせていたが、いつも律義で、優しさを内に秘めていた。彼が生涯合わせ持っていた暗さと優しさはどこからくるのか…? 六十年代から七十年代にかけて支路遺耕治が果たしたその詩の評価と、人と文学の内実が時代の持つ示唆だとしたら、彼が疾走を果たし成熟に向かったのも、その時代が内包していた側面だった。時代や権力に刃向かった多くの若者にとっても社会への属辞化は幻想の崩壊とともに始まっていた。「疾走と成熟」という二律背反を課した支路遺の生き様は見事と云うほかない。


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