美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2006年7月
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2006/07/24(月) 大阪市立美術研究所・雑感 52
画家・志摩 欣哉氏の回想は続く・・・
この時、彼が支路遺耕治と名乗ったか川井清澄と名乗ったかは憶えていないが、たぶん本名を言ったと思う。彼は最初から最後まで絵を発表するときだけは本名の川井清澄だった。ある時期から彼は支路遺耕治の名を使用しなくなった。それは大阪市大正区の千島団地の公団に独り住まいを始めてからタクシー・ドライバーなどを経て会社勤めを始めた時期にあたる。これ以後のことについては別稿で述べることにするが、ある日、「就職するから保証
人になってくれへんか…」と言ってきたので、「どこに勤めるんや!」と聞くと「おれ、喋るの苦手やから葬儀屋やったら、あんまりしゃべらんでええしな…」すこし苦笑いしながら言ったのを思い出す。たしか、それから一、二年ほどしていったん退職するが、請われて同じ会社に戻った。そのおりに私が再び保証人になったと思う。これをさかいに彼の詩作活動は急速に少なくなっていった。だがこの頃の彼からの手紙を読むと、そのことへの焦燥感のようなものを感じとることができる。けれど彼は決して会社を辞めなかったのだ。それは単に生活のためだけではなかったのだ。彼が気付いたときには、すでに彼は会社の中で重要な立場になっていた。「…辞めて絵や詩をもっと書きたいけどな、そう簡単に辞められそうにもないしな…」と何度も彼の口から聞いたことがあった。それでも彼は絵筆を離さなかった。「月に一、二度ぐらいしか休みとられへん…」とこぼしながらコツコツと彼は絵を描きつづけていたのだ。会友だった新世紀美術協会には毎年のように出品していたし、定期的には個展を開いていた。おそらく彼は死ぬまで公私ともに多忙に生きたにちがいない。支路遺耕治という詩人が、『疾走』という命題を駆け抜けて一時代を締めくくり、本名の川井清澄へと成熟の季節を自己に課した姿は見事というほかない。その中でどれだけ揺れ動き渇き夢みても、彼は若き日の自分を反芻することは避けていた。ただ彼は、十代の頃に抱いた表現することの重さを捨てなかっただけかもしれない。だからこそ死の床にあっても油彩画を描き続けたいと願った。それは執念ではない、唯一の存在の証しを求める渇望にすぎない。だが皮肉にも彼は画家・川井清澄としてでもなく、あの伝説化すらはじめた詩人・支路遺耕治としてでもなく、一企業の有望な役員として惜しまれながら不帰の人になった。おそらく成熟とはそう云うことなのだろう。だが若き日の彼には、その片鱗すら感じられなかった。言ってみれば攻撃的で破壊的ですらあった。振り返ってみると、彼と私の交友は大きくわけて三期に分かれる。一九六二年頃から一九七二年頃までの十年間が、その第一期にあたり、彼を詩人・支路遺耕治として語るべき時期にあたっている。この間に、リトルマガジン『他人の街』が創刊され、彼の詩人としての活動が絶頂期に向かっていく。そして他人の街社として、彼が手がけた詩集やエッセイ集が送り出されていった。それらの中で詩集『疾走の終り』が誕生するには、まず彼の友人でもあった恵口丞明の詩集『チベベの唄』の出現が必要だった。支路遺耕治はこの詩集に強い衝撃を受けている。その恵口丞明もすでに他界してしまった。当時、支路遺の周囲には多くの人が集ってきた。ここでそれらの人たちの名前をあげる余裕はないが、誰かがそれを市岡ルネッサンスと名づけていた。支路遺が『他人の街』を創刊するまでには、幾つかの同人誌や個人誌を経なければならない。私と彼とまず始めた同人誌は、『ひろば』という詩誌だっ
た。彼と出会って一年目ぐらいに創刊したと記憶しているが、この雑誌も行方不明になっている。『ひろば』が何号まで続いたか記憶にないが、この同人誌が支路遺の出発点であった。そしてこの詩誌を継続している最中に、突然彼は東京に行くことになる。
一九六三年一月、東京都杉並区清水町一八九、桜荘七号に身を落ち着けた支路遺からハガキが届いた。「見送り有り難う。雑誌今後どうするのですか。くわしい事を、お知らせ下さい。僕も君の進んだ東京の第一歩を歩んでいる。今度、会う時、詩も、少しは、みれるようにしておきますから… 今後どんな事になるのか知りませんが、できるだけやらねばしかたないだろう。十四、五日からボーイの仕事をしようと思っている。風邪で長文が書けないので、今日はこの辺で」


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