美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2006/07/20(木) 大阪市立美術研究所・雑感 48
 社会が60年・70年になると騒然としてきて、美術研究所でノホホンとデッサンをしている時ではなかった。況や、俺の下宿している阿倍野の奇怪荘の三階にベ平連の「なんだいべ」があり、足しげく、作家の小田実氏が来ていて、私も氏と一緒に朝日ジャーナルに載ったことがある。
べ平連【べへいれん】とは「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」の略称であり、1965年に、小田実、開高健、鶴見俊輔、堀田善衛らが創設。おとなしいデモや討論会、反戦広告,米兵の脱走援助などの活動をした団体である。
 骨のある連中は東京のアメリカ大使館へのデモ行進を行ったのを始まりに、作家の開高健の発案で米紙ニューヨーク・タイムズへ1面を使った反戦広告を掲載、1967年4月には画家岡本太郎・筆の“殺すな”と大書された文字の下に英文のメッセージをデザインした反戦広告をワシントン・ポストに掲載するなど、その活動も既成の市民運動の枠を大きく超えたものであった。
 思想を嫌う俺でも、これまでの既成組織(左翼政党や労働組合)が中心になって行った教条的で閉鎖的な市民運動とは違い、政治的信条や思想を問わない「来る者拒まず、去る者追わず」のしなやかな活動姿勢故にその中にのめり込んでいくのである。
 今でも思い出すのは「なんだいべ」に匿っていたイントレピッドの脱走兵が「ニホンニホコルノハ、ケンポウ九ダケ。コンドノアンポハ、チンポヌキ、キンタマダシノジャウヤク、ワルイデス」と言われ、すぐ上京、反戦運動に身を投じるのだ。
 勿論、似顔絵を新宿上野公園で描きながらだが、その日は浅草の「酉の市」で骨休みにヌードでも見るかと、浅草フランス座にいくと、エレベータ・ボーイが文庫本を熱心に読んでいて、我々を屋上まであげ、口論になったのである。そのエレベータ・ボーイが売り出し前のビート・武とその日、三島由紀夫氏が自衛隊総監
室で割腹自殺遂げたので奇妙に覚えているのである。
また東大在学中の江田五月氏が自民党総裁室に乱入、逮捕され、親父の助言で外国の大学へ追放されたのもこのときであろう。所詮、火炎瓶程度では世は変えられないと、俺も帰坂、また通うのであるが、そこは大阪美術研究所近くにある「夕陽丘図書館」であった。その前身は旧大阪府立図書館天王寺分館であり、その母胎は大原社会問題研究所(現法政大学大原社会問題研究所)であったのだ。


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