美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2006/07/17(月) 大阪市立美術研究所・雑感 45
 またメールいただいた。「大美」は変わり者ばかりだな、というのである。私は前にも申したように「大美」を出て、芸大教授とか、絵画教室などやっている方には興味がなく割愛しているだけで多くの先生?方がおられる事を付け加えておきたい。
 ただ「創造者」とは「畸人」にならざるを得ないのだ。「畸」とは土地制度において、田を「井」の形に整地した場合、残余の部分を指すのであるが、これを人事になぞらえて、中国の荘子はすごいことを言っている。「畸人なるものは、人に畸なれども、天に等しい」つまり畸人は俗世においては畸だが、天から見れば正しい人ではないか、というのである。
 そういう意味でいまなお「大阪美術研究所」に畸人の水脈が枯渇せず継承されていることに、ここ出身の私自体、大いに感銘を受ける者である。
 現代日本の閉塞状況下において100パーセント「己」を貫徹しえるものは畸人しかない。「畸人すなわち、はぐれ者が己人なり」と言うのが私の終始した、探し当てたテーゼあるからである。

 赤松輪作と同期の画人だが村上華氏などは典型的な畸人で今、なお光彩を放っている。
1888年7月3日、大阪天満松ヶ枝町に生まれる。本姓武田、甲州武田氏の末裔。本名震一。

1895年神戸市神戸尋常小学校に入学。叔母村上千鶴子の婚家、村上五郎兵衛方に寄居する。1903年京都市立美術工芸学校へ入学。1904年村上家を嗣ぐ。

1907年大阪美術研究所創立に参加。1916年京都市東山高台寺円徳院に住む。1917洛北衣笠に転居。この頃仏画に筆を染め、静物、風景等を多く描く。

1918年国画創作協会(国展)を結成。1923年京都を去り、神戸に帰り、芦屋に隠棲。

1925年タゴール翁と識する。「タゴール像」を素描す。国展第五回に「松巒雲煙」出品。1926久邇宮家の献上画を制作。
1927年神戸花隈の旧居に帰る。此の頃より画壇を遠ざかる。以後制作は多いが公表は少なくなる。1934年華岳作品の憧憬者が集り、各自その収蔵作品を持より東京永楽倶楽部に於て展列を行う。

1935年帝国美術院第一部無鑑査となる。1936京都美術倶楽部に於て、友人達が作品百余点を展示。

1939年11月11日、神戸花隈の家居に於て宿痾に悩みながらも「牡丹図」に加筆するため礬水びきをするが、その夜遂に永眠する。享年51才。

華岳は山岳の絵を「山水菩薩」と呼んだ。魂を込める点で仏画と変わりがないからだ。華岳にとって山水画を描くこともまた修行であった。


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