美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2006/06/09(金) 大阪市立美術研究所・雑感 O
 思うに儀間氏にしろ、横塚氏にしろ、似顔絵というモノでもおろそかにせず、客に媚びず、己に忠実に描く人は昔は多くいたよ。作品は売っても己は売らないという人が。今は売れさえすれば己を誤魔化してもいう奴が多すぎる。しかし、こういう人には神は捨ておかないものであり、儀間氏の場合、沖縄タイムズの新川明があらわれるだ。その頃の沖縄の絵描きも伝統文化を破壊し、アメリカ軍に阿諛するような絵描きばかりだったが、儀間氏の作品を見て「沖縄のシケイロス、いやオロスコだ」と絶賛するのである。後、二人は「沖縄から日本が見える」という詩画集を出版し、話題を集めるのだ。

儀間氏略歴
1923年 那覇市に生まれる。
1946年 大阪市立美術研究所で絵を学ぶ(〜1951)。
1946−1965年 大阪・難波にて似顔絵描く
1959年 行動美術展(油絵)新人賞受賞。
1966年 同展会友賞受賞、会員に。
1970年 この年から木版画に専念。
1971年 初めての創作絵本 『ふなひき太良』で毎日出版文化賃受賞。
1975年 創作絵本;鉄の子力ナヒル』で サンケイ児童出版文化賞受賞。
1980年 沖縄戦版画集『戦がやってきた』、沖縄タイムス芸術選質大賞(絵画部門)受賞。
1994年 『版画集・儀間比呂志の沖縄』
1995年 『沖縄戦・朝鮮人軍夫と従慰安婦』
1997年 創作絵本『マジムンのうた』 創作絵本『やんばるのカメさん』
1999年 絵本『沖縄のわらべうた』
2000年 絵本『沖縄の鳥人飛びアンリー』
2001年 絵物語『琉球に上陸したジョン万次郎』

2006/06/08(木) 大阪市立美術研究所・雑感 N
 大阪市立美術研究所から外れてしまった。
俺がそういう運動にのめりこんでいるうちに、小林忠一君は石膏デッサン、前期・後期を修了し、あこがれの人体部に進んでいた。何しろヌードを描けのですぞ。ただ、こんな話も思い出していた。安保闘争の折、東京と京都の学生は議論に余念がなかった。その間、山陰の生徒はせっせと卒業論文を書いていた、というのである。まさに小林は島根の人であったが、彼の場合、映画看板屋で鍛えた腕がモノをいったのであろう。 
尚、私の先輩・横塚氏より以下のご指摘頂いたので、借用しておく。
君とはテレコの研究所だったね。俺のときの講師は片腕のない石井元、家永喜三郎小出拓二、融香蘭の亭主。天王寺屋さんは事務所で威張っていた。先輩に多田統一
前田さん、がいた。ベネチア風景しか描かない伊藤岳。館長は望月信条。辻司は沈うつな顔をして地下室の階段の下にいつも立っていた。ヌードの部屋は石炭ストーブだった。アルミの弁当を昼前にダルマストーブに載せていた。   横塚

横塚先輩も儀間氏と同じく、似顔絵描いていても納得いくまで何枚も何枚も描く人で絵には執念持っている先輩である事を申しそえておきます。画像は氏のアトリエでの制作風景です。

2006/06/07(水) 大阪市立美術研究所・雑感 M
天王寺公園、阿倍野銀座は俺にとっても懐かしいが、今、改めて行こうという気はおこらない。阿倍野銀座から釜ガ崎に通じる道は日雇い人夫、オカマ・チンドン屋・三流芸人など多種多様で実に人間臭い町の思い出を壊すのを恐れるからである。今は都市開発と共に人間?がおらなくなったような気がするからである。
 そんな日雇い人夫をあてにする、ドヤや、めし屋を経営するオヤジ。これら人生の底辺にいるさまざまな人間のふてぶてしいまでの強じんさと、その反面ではヘドのでるような弱さに、俺は絵以上の愛着を感じていた。そんなある日、タクシーにひかれて死にかけていたニコヨンの処置に対する警察側の取り扱いがあまりにも冷たいということが発端だった。釜ヶ崎のニコヨン達は交番を焼き、乗用車に火をつけ暴れまわったのである。勿論、一般市民も左翼学生も、ベ平連も、美術学生もその暴徒の中に加わってていったのである・・・
 オウムのサリンで苦しんでいる人を股いで、通勤、通学するような人はおらなかったような気がする。

 その時代はまだ一つの命の尊とさを大事にしていたのだ。

      写真は暴動から一週間後でこのありさま・・・・機動隊も人間として恥ずかしかったのか楯の山だよ。

2006/06/06(火) 大阪市立美術研究所・雑感 L
大阪市阿倍野区松崎町2−5−31。「近海荘」というアパートが「宏プロ」の旗揚げ場所であった。三階には小田実氏らの主催するベ平連の「なんだいべ」や、近くの工専の学生なども泊まっていた。まだその頃はコピー機は未発達で俺が西郷英樹や三田明を線描きして彼らに手伝って貰っていた。仕事が済むとかわい子ちゃんのいる喫茶「ドーム」へ行ったり、八十円のアポロ・ランチを喰い、天王寺公園で寝転がるのである。公園には針金細工の人や浮世絵、蛇画描いて、売っている人もいて結構面白かった。ところが昭和50年頃から都市開発の名で、阿倍野地下道が出来、我々はペ平連の援護のもと、似顔絵を描くパーフォーマンスをして抵抗するのである。しかし、花博の頃には公園も有料化になり、まったく面白くなくなってくるのだ。
 我々は、大阪天王寺公園がだれもが四季を通じて
多目的に楽しめ、ゆっくり憩える身近な空間、
そんな「夢」のような公共施設にならないかとの思いから、
提案書「大阪市民のオアシスを返せ!」と市民から公園への提案−」をまとめ提出しましたがなしのつぶで、ついに武力闘争に入ったのです・・・。

2006/06/05(月) 現代若者思想・・・?
今日、東京からデザイン学校の若者が修学できていた。話して見ると今の日本に関心がない、目の前に困っている人を見ても関わりたくない。大人が悪いのだ。色々質問していると、或る子が俺に対して「ムカツク」ときた。ああ、話にならないや、デザインを勉強するならっとするどく自我と社会の不条理を感じなければ創作できないのに・・・

 私の若い頃怒っていたよ・・・
とくにその頃の日本は東京オリンピックが終わり、万博に向け高速道路、ビル、新幹線等の建設ラッシュで日本列島がのたうち廻っていた。その反動であろう。小田実氏がベ平連結成、反日共系学生、反戦デー新宿駅占拠。機動隊、東大安田講堂の全学共闘派を強行排徐、樺美千子氏死亡。
 とにかく何が起こっても不思議ではない時代で、それが新宿の文化的な爛熟期だったのだ。管理社会の圧力に潰され、根こそぎされていく、最後の花を咲かせていたのだ。故にどんな下手くそなニガオエ描きにも、常時三・四名以上の客が付いた者だが、その前を今までの乞食でもないフーテンでもない、一種独特のムードを漂わせた若者達を眼にする。
 これがサカキ・ナナヲ、加藤鋭、山尾三省氏を中心にする我が国でのヒッピー・ムービメントの始まりだったのである。しかし、豊潤たる花は落ちるのも早い。決定的にしたのは68年の「新宿騒乱事件」で警官は市民や学生に襲いかかり、フーテンや浮浪者を検束していった。
 これを期にニガオエ描きの大半が旅に出、ヒッピー達も新宿から出ていき、新宿から人間の匂いが完全に消えたのだ。「乞食の消えてしまった町は、もはや人間もなく、祭りもない」と劇作家・別役実氏は言ったが至言で哀れにも新呪区と為り果てるのである。
今の大人も大人だが、若者も若者だ。俺は早くお迎えがほしいよ・・・・

2006/06/04(日) 大阪市立美術研究所・雑感 K
 前にも話しましたように、美術館地下に「瑠樹」というレストランがありました。研究生はQランチといって八十円でしたが、我々仕事のあった後はビフテキにビールです。他の研究生は羨ましそうにしていたのはゆうまでもありません。ところでここは一般にも開放され、昼時、西成のオカマさんが良く来ておられました。そんな中の一人・イイオカ・マヨさんという方と親しくなりました。「ネェー、チーさん。絵描きでも、芸能人でも、もちろんスポーツ選手でもオカマっ気がなくっては一流になれないのよ」と言われたことが印象的です。傍に居た東光会の家永棋三郎氏が「本当だよ、ヘルマホロダイトと言って両性具備している方がいい作品を残しているな」とからかうのです。
 昼からは信濃橋洋画研究所の回顧展、鍋井克之、小出楢重、田村孝之介、向井潤吉らの作品の搬入のお手伝いです。これが重労働で八百円でしたが、素晴らしい作品に出遭えるので楽しい仕事でした・・・・

2006/06/03(土) 大阪市立美術研究所・雑感 J
現代の阿倍野は下はコンクリートで固められ、刑務所みたいなビルか乱立しているが、我々、美術学校行って居た時はもっと長閑な風景であった。その頃の日記を・・・

まだ阿倍野「大阪」周辺にも雑草のある空地があって月見草が咲いていた。風流気のある友人がそれを摘んで酒ビンに挿しておいたのだが一向咲こうとしない。ツボミは今にも咲きそうに膨らんでいるのだが「この部屋は地下室で一日中電気を点けていた」それが何かの弾みに停電し、今度、点灯したとき皆、いっせいに歓声をあげた。それは月見草が全部といってよいほど咲いていたからである。つまり月見草は明るい所では咲かない性質なのであろう。宇宙の大自然というのはこんな可憐な幽かな花にでも、大自然の法則というものがあるのだなと感動したのと、同時に人間も大自然の法則には逆らえぬと思った訳です。
 ところでこの地下室は梁山伯といわれるほど、色んな人間が出入りしていたのてす。同学の美術研究生。ベ平連。ホームレス。変わった所ではヒッピーや宗教関係者等集まり、若者特有なとりとめのない話をしておりました。しかし、そのとりとめのない話の中で教えられることが一杯あったのです。例えば後年、全国をニガオエ旅に出るのは美術研究生から聞いた「自分の印象に向かって行け、自分
自身を自然の中に包めよ、自分の全部を自然と飽和せしめよ」という画家ルソーの言葉に影響を受けていたからだと思います。ベ平連の連中にはベトナムで無差別にばら撒く、米軍の枯れ葉剤の恐ろしさもさることながら博物学の巨人・南方熊楠を教えてくれたものでした。教えてくれた彼にとっては熊楠の強烈な行動力が発散する生命の燃焼音が、頭でっかちの彼を生きるという緊張感に新鮮さを感じたのではないでしょうか。ところがこの熊楠こそ日本における生態学「エコロジー」自然保護運動の先駆けでもあったのです。エコロジーという言葉が熊楠の手紙に出てくるのは、今から87年前、明治39年、政府が神社合祀令の名のもとに国をあげて自然破壊を決行した時の事です。「生態系の破壊は人間の生活を破壊し、人間性そのものが荒廃していく!」そう叫んで熊楠は日本中でただ一人抵抗し、投獄17日間に処せられるのです。「自然を守れ、人間を守れ」と。

・・・・などと書いています。

2006/06/02(金) 大阪市立美術研究所・雑感 I
 美術研究所へはデッサンに通うというより、「人生論」の方が重きを成していたように思う。いずれ人間の一生は一回限り故、わかり切ったサラリーマンするより、己の可能性或る方向へ持っていきたい希望多大の年頃でもあったわけだ。
 そんな時、松下電気より「似顔絵を描く人、二・三人寄越してくれ」という話が舞い込んできた。それまでは美術館で開く展覧会の見回り役のアルバイトでなんとか凌いでいたが、これは良かったね。大阪国際ホテルや京都ロイヤルホテル、太閤園で全国にある松下電器販売店の慰労会に似顔絵を描く仕事である。美術館での仕事は一日800円ぐらいだが、その十倍以上貰えて、おいしい食事にもありつける訳だ。美術研究所長の天王寺屋氏は「似顔絵をあまりやるとデッサンが狂うよ」という忠告にも耳もかさず、セッセと似顔絵に身を入れ始めたのだ。しまいには生徒の小林忠一、南陽光、近藤晃などと語らって阿倍野に「宏プロダクション」を旗揚げしたわけである。我々のアパートの二階には作家・小田実氏の「べ平連」もあったし、近くには大阪工芸学校もあって意気盛んだったな。勿論、女の子も毎日遊びきてマリファナ・パーティにうつつを抜かしていた「この頃は大麻は禁止されていなかったよ」

下の写真の女の子もいい婆ちゃんになっているだろうな。

2006/06/01(木) 大阪市立美術研究所・雑感 H
 私が大阪市立美術研究所に入所した頃は研究費は一ヶ月800円であったが、現代は6000円程度になっているらしい。それにしても安い。そして嬉しいのは教授が試験以外、あまり、絵のことで押し付けてこないことと、上はおじいさんから美大目指す若者や設計士など多種多様の生徒かいたことである。
 私の周囲は映画の看板描きの小林君、ピアノをひかせたら良いというほど細い指を持っていた長瀬君、如何にも芸術家らしい、額に髪を垂らした藤田君、大塩平八郎の子孫であった可愛い大塩さん、また色が白いのに毛深い毛を気にしていた小熊さん、丸顔で目のくりくりした米屋の堀江さん。
 これがだいたい私の仲間であった。
 昼になると研究所内の喫茶「瑠樹」で80円の研究所ランチを食いながら、青臭い芸術論に華が咲くのである。

 ああ、懐かしい・・・や。

 写真はその頃大道で詩集を売る私です。「魂より始めよ」は良きにしろ、悪しきにしろ、私の性分なのでしょう(笑)尚、詩集は志集とした記憶あり。


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