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2006/06/08(木)
大阪市立美術研究所・雑感 N
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大阪市立美術研究所から外れてしまった。 俺がそういう運動にのめりこんでいるうちに、小林忠一君は石膏デッサン、前期・後期を修了し、あこがれの人体部に進んでいた。何しろヌードを描けのですぞ。ただ、こんな話も思い出していた。安保闘争の折、東京と京都の学生は議論に余念がなかった。その間、山陰の生徒はせっせと卒業論文を書いていた、というのである。まさに小林は島根の人であったが、彼の場合、映画看板屋で鍛えた腕がモノをいったのであろう。 尚、私の先輩・横塚氏より以下のご指摘頂いたので、借用しておく。 君とはテレコの研究所だったね。俺のときの講師は片腕のない石井元、家永喜三郎小出拓二、融香蘭の亭主。天王寺屋さんは事務所で威張っていた。先輩に多田統一 前田さん、がいた。ベネチア風景しか描かない伊藤岳。館長は望月信条。辻司は沈うつな顔をして地下室の階段の下にいつも立っていた。ヌードの部屋は石炭ストーブだった。アルミの弁当を昼前にダルマストーブに載せていた。 横塚
横塚先輩も儀間氏と同じく、似顔絵描いていても納得いくまで何枚も何枚も描く人で絵には執念持っている先輩である事を申しそえておきます。画像は氏のアトリエでの制作風景です。
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