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2006/06/25(日)
大阪市立美術研究所・雑感 29
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私のアトリエ?は阿倍野の真裏、松崎町にあった。そのアパート名は「近海荘」といった名前の事は前に記したが、近所の人は「奇怪荘」と呼んでいた。それは三階建てなのに外から見ると二階建てなのは1階が地下に埋没しているからで、それと住んでいる人間が変わった人ばかりであったからだ。我々はそんな部屋でモグラように生活してわけだか、近くに大阪美術研究所、大阪工芸学校があるし、このアパートの住人は先程言ったように売れない芸人、オカマ、露店商、はては何で喰っているのか解らない人たちばかりであった。しかし、私は彼等より多くのものを学んだ。とりわけ三階に居住する作家・小田実の主催する「なんだいべ」ヒッピー・イズムを提唱する詩人のオム・タイジンやチビグロ君、ゲリー・シュナイダーなどである。 そんなある日、友達が釜が崎で百グラム20円の肉を大量に買ってきた。すぐ皆を集めてスキヤキ・パーティしたのだが、不思議に誰も肉に手をつけうとしないのである。鍋も白い泡が吹き出し、石鹸くさいのはきっと猫の肉だったのだろう・・ しかし、そんな中で一人黙々喰っている奴が美術研究生の川口由一君だったのである。彼は医食同源を説き、福島正信氏の自然農法を説き、いかにいまの食栽培が間違っているか、とうとうと説くのである。農薬、況や人間の操作した食物を食べ続けるなら、21世紀にはおおくのを心の病を抱変えこんだ人間が続出するであろう・・・・と我々を嚇かすのだ。今、思うと川口君の言った通りになってしまったが・・・・
川口由一氏略歴
自然農の心と実践川口由一 著 掲載 1998/09/25 1939年 奈良県桜井市に、専業農家の長男として生まれる。 小学6年の時に父と死別し、中学卒業後定時制高校で3年、天王寺美術研究所で6年間学びつつ、農家の主たる働き手として、当時はごく当たり前の農薬を使った農業を営む。
1978年 農薬で体をこわし、自然農に切り換えるべくその方法を模索し始める。同時に漢方医学と出会い、「生命の営みに沿った農」を目指す。
1987年 この頃より野草社発行の「80年代」誌に「妙なる畑に立ちて」を連載。田畑の見学会、合宿会など、自然の農を求める人々と共に学ぶ場をつくる。
1991年には赤目自然農塾が始まる。
現 在 自然農の学びの場は全国各地10数カ所に増え、漢方学習会も全国5カ所で定期的に行われている。
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