美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2006/06/22(木) 大阪市立美術研究所・雑感 27
 面白い事にこんな「大阪市立美術研究所・雑感」という雑文を書いていると、色々検索に引っかかるらしく、色んな方より「お叱り」や「懐かしい」というメッセージを頂く。中にはなぜ有名な誰々氏が出てこないのだ、という催促あるが、これは私個人の回想であって、大阪美術研究所を出て、何々芸大の教授になったとか、芸大志望相手の予備校的講師などは不思議に私の脳裏に浮かんでこないのだ。基本的には絵は教え、教えられるものではなく人間を追及するものだからであろう。
 その点、彫塑部の村岡三郎氏は精悍な顔付きで彼が向こうから歩いてくるだけで、精神が緊張したものである。現にこの村岡氏は西成を歩いてもどこかの大親分と勘違いされ、チンビラは横道へ逃げ込むエピソードもあるほどだ。 現に氏は空軍の特攻部隊に所属し終戦直後、九州の空軍基地から故郷である大阪への帰途、広島の惨劇を目撃している。それからの氏は生命の実存への問いかけとともに、鉄と硫黄の熱現象を表現とし、熔断した鉄、硫黄や塩、そして(機能や形状から人体を連想させる)酸素ボンベといった、身体や生命と根源的に関わる素材。その圧倒的な重量感と緊張感の背景には、つねに、自身の戦争体験と真摯に向き合う村岡の姿、そして現代における生と死をめぐる彼の批評が垣間見えてくるのである。こんなことを書いても平和ボケして己自身のことしか眼中にない若者には、氏の表現作は理解できないだろう。故にいい加減で止めるが、興味ある方は検索されたし。

1928= 大阪府に生まれる
1944-学徒兵と徴兵され特攻部隊に所属、終戦
1950= 大阪市立美術研究所彫刻部修了
第35回二科展 52回まで毎回
1960= 第1回集団現代彫刻展(池袋西武) 2・3回も
1964= 現代美術の動向(国立近代美術館京都分館)
1965= 第1回現代日本彫刻展でK氏賞 3回で大賞 2回、4回、5回、9回も
1972= 第2回現代国際彫刻展(箱根彫刻の森美術館)
1973= 第1回彫刻の森美術館大賞展
1974= 第11回日本国際美術展
日本近代彫刻の展開(神奈川県立近代美術館)
1983= 現代日本美術の展望(富山県立近代美術館)
1987= 村岡三郎1970-1986展(大阪府現代美術センター)
国際鉄鋼シンポジウム−YAHATA(北九州市)
1988= OLYMIAD of ART−野外彫刻展(ソウル)
抽象彫刻の形成期(練馬区立美術館)
1989= ユーロパリア・ジャパン(ゲント市立現代美術館)
1990= 第44回ヴェネツィア・ビエンナーレ
STUCKI 2(バーゼル)
SAVOIR−VIVRE,SAVOIR−FAIRE,SAVOIR−ETRE(モントリオール現代美術国際センター)
1992= 語り出す鉄たち(東京都美術館)
1993= Invisible Nature(プラハ城ロイヤルガーデン他)
1994= 戦後日本の前衛美術(横浜美術館他)
1996= 大阪市立美術館付設研究所の50年(大阪市立美術館)
天と地の間に(名古屋市美術館他)
1997= 第2回光州ビエンナーレ
村岡三郎展(東京国立近代美術館他)



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