美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2006/06/21(水) 大阪市立美術研究所・雑感 26
大阪美術研究所の先輩であり、失礼たが似顔絵で非常に迷惑かけた横塚氏を紹介する。だいたいここでは人体部に進級すれば「京都芸大」人体を卒業すれば「東京芸大」は確実に入れるといわれている。この横塚氏もここより「京都芸大」に進んでいるが、氏の腰を落ち着ける場所がないのか、腰を折っている所が氏らしい。  横塚 駿 
 1936年 長崎にて生まれる
 1955年頃 大阪美術研究所・人体部進級するが足遠のく。
 1960年 京都美大洋画科中退
 以来日本美術会、関西美術家平和会議、集団造形などの参画
 1978年 すべての美術家団体を脱退。以降フリー画家として今日まで生きている。個展は主として関西でほぼ年に1回以上開催した。

寒い朝

私が活動できる適温は摂氏18度+−8度である。朝は5時起き
するがもう師走の中頃になれば寒い。膝に毛布をかけジャンパーを背中に羽織り、石油ストーブをつけて椅子に丸くなっていた。似顔絵をインタネットですることにしてやっとホームページのあ
らましが出来た。似顔絵の見本が少ない。ことに子供と老人の
絵がいるのだが、まー仕方なく見切り発車ということにしよう。
私は三十代半ば頃から六年間、大阪の十三という歓楽街で似顔を描いて五人の妻子の生活を支えていた時代がある。街頭商売、「寅さん」のようにその日暮しだが旅はしない。初めてやった頃は同じような生活をする仲間を見よう見真似でやってみたが、彼らは大方デカダンで、酔っ払いで、麻薬を常習する者もいて、絵は似させることだけで、目にはピッカンコと輝かして金を稼ぐのであった。 私もそのまねをしていたが、その日はお客さんがつぎから次に来て目のまわる忙しさだった。ポケットに500円札をふくらませて仲間と帰りの電車の方に歩いていた。ふと道端を見ると、丸めた紙が捨てられていた。それは私が描いた似顔絵だった。もう少し歩くと仲間のO君の絵が破いて捨てられていた。私はショックだった。もうこんな絵を描いてはいけない。私は絵を描きながら家族と生きていくために似顔絵という商売をしなければならなくなったのだが、たとえ街頭であり500円という安い絵を描こうが、こんないいかげんな絵を描いてお金を稼ぐ癖をつければ本当の絵の方もかけなくなるだろう。「割り切ればいい」とよく言うが、割り切るということが本当はいことではないだろうか。
それは街頭で人の顔を描くのである。徹底的に描くというようなことは出来ない。しかし、できるだけ時間を引き延ばし、最低
は30分をかけて全力でいい絵を描かねばなければならない。私はそう考えたのだった。O君は絵の勉強をしてきたわけではないのでその話は理解されなかった。私はおせわになったO君と別れて一人で十三の歓楽街のネオン輝く路上で仕事をし始めた。わたしはそれ以来、似顔絵という言葉は仕方がないが、その仕事をデッサン力を身に付けるために利用するようにした。今から考えれば似顔絵の仕事は毒にも薬にもなる仕事だったと思う。もしもあの時、「割り切って」行くのでがいいと考えたならば、今ごろはまともな絵を描いていないだろう。その考えを通してたくさんの人たち、大方は2万人に近い人々の顔を描かせてもらった。それは私にとって楽しい仕事であった。老若男女、あらゆる職業の人々を描いた。すべての人々に何らかの魅力を感じた。毎日は感動の日々であった。しかし毎日自分の絵が未熟であると反省する日々であった。          
 この文に氏の似顔絵に対する真摯な苦渋を感じるのは私だけであろうか。


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