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2006/06/15(木)
芸術で病んだ町や人を救おう・・・・
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私は今の社会を救うのは芸術の役目も一つだと思っている。
かんたんにいえば、「芸術」というのは、自己中心的で閉鎖的で独善的な芸術家が見せてくれたり聞かせてくれたりするもの。受け入れる側も、プライベートな状況で、あるいは、そのための特別の施設(ハコ=美術館やイベントと称して、そこで音楽活動や似顔絵を描く行為)の内部で感覚的ないしは精神的な快楽を鑑賞/享受するというもの。一方、「アート」は「人の中に入り、人と関わるもの」、「新たな価値観や世界観との出会い」を通じて「地域を活性化」させる「コミュニケーションのツール」であり、「触発的で、双方向的な」「開かれたコミュニケーションそのもの」であるはずである。
私見によれば、「アート」は、「見て楽しい」だけではない。アートには、人やまちを生かす広く深い力がなければならない。人を幸せにし、癒し、元気づけてくれ、人の精神世界の多様さ・おもしろさを示し、わたしたちの「エネルギーの素」であり、生きる元気を回復してくれるものでならないと考えている。 したがって、アートを鑑賞中心のものから、参加・交流型の「アートプロジェクト」へと進化させ、このプロジェクトを、社会とアートのインターフェイスとして活性化させることで、文化的に多様で豊かな社会を形成することが可能になるというわけだ。 芸術を社会化(市民化)することで、地域共同体の「生活の質の向上」させるという、このどこかで聞いたようなプラン(文化庁の文化立国21プランとか、アーツプラン21?)は、とりあえずの「政策」としては悪くはない。ある面ではこの考え方も正しいし、じっさい「アート」の意味を行政側が理解して「芸術文化」支援が充実してくれば、この業界も潤うのはたしかだからだ。しかし皮肉な言い方を言えば、いままで行政側や街のエセ識者主導のもとで行われた支援は押し付けであり、却って本当に市民が求めているものとかけ離れすぎているのを痛感する。 かつて江戸時代の日本では、浮世風呂や浮世床のような町民が自由に話し、くつろげる社交場が賑わった。17世紀のフランスのサロンは、ジャンルを超えた自由な思考や出会いの場であり、楽しみを共有しながら、相互に交流できる集まりであった。サロンの本質は、「会話」であり、会話を通じて、人を楽しませ、自分も楽しむことに最大の目的がある。そこから新しい価値が生まれ、さらに、ある種のマーケットが生まれてくると確信する。 「箱」の中で行われるイベントはいくら立派でも、普通の市民にとっては不毛である。このことに行政側が気付かなければ(所詮無理だが)ますますストレスを抱えた人間が街を徘徊するであろうことを警告する。 そういう意味で私の行動(大道こそ我が画室、学校、癒しの場であることを標榜する私見)を許容して頂いている、倉敷の人々、大原美術館、観光協会には感謝している。
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