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2006/06/13(火)
大阪市立美術研究所・雑感 R
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友達の小林は人体部でヌードを描いているというのに、俺は相変わらず前期でアグリッパの石膏デッサンだ。しかし、昼になると皆、80円の研究生ランチだが、俺はビーフ・テーキにビールである。松下電器の仕事もあり、それに夜、神戸、難波、京都と似顔絵を描きに行っていたから金はあった。それにしても京都の会津小鉄系の親分、神戸のプランタンと言うケーキ屋のおじさんにお礼をいいたい。ただ難波の場合、プラントン靴店の横で似顔絵をやらせて貰ったが、それだけではすまない。地回りのヤクザ・酒梅組と松田組がいるわけである。それが面白いことに同じ似顔絵を描いている先輩に小出という人が居て、どちらの親分か忘れたが今宮中学「現・今宮高校」の同級生で「自彊会」と言うOB仲間で子分も小出氏には頭を下げているほどであった。なんでも昭和八年八月二十日野球史を飾る投手戦25回を明石中学と戦い、紐帯は堅いらしい。お陰で一番いい場所でやらせてもらったよ。 ところがこの似顔絵描きさんが小出三郎さんという有名な方だったのである。 大阪市東区内久宝寺町に、小出一也・園香の三男に生る。洋画家故小出卓二(行動美術協会創設会員)は次兄。 1926年 大阪美術学校に一時通う。程なく大阪信濃橋洋画研究所に入り、小出楢重、国枝金三、鍋井克之、黒田重太郎に指導を受く。 1932年 第2回独立展、入選(初出品) 1940年 第10回独立展、「艪とたらひ」で独立協会賞 1941年 第11回展独立展会友推薦、同年より無鑑査出品の資格得る 1947年 第15回展独立展会員となる 1954年 独立会員春季展に「赤いドレス」出品 1956年 田中佐一郎、中間冊夫、菊池精二、中村善種らと「いちい会」結成。以後、1964年まで、独立展、いちい会展に毎年出品 1964年 11月自宅で倒れる。阪大病院入院、退院後自宅療養 1967年 9月再発、死去 1968年 3月小出三郎遺作集刊行、京都独立展に遺作30点陳列、4月第5回関西独立展に遺作40点特別陳列 1978年 2月28日から3月12日、東京セントラルアネックスに於いて、小出三郎遺作展開催
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