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2006/06/12(月)
大阪市立美術研究所・雑感 Q
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佐伯祐三が一回生の卒業生であれば二回生に日本デザイン界の楚を作った山名文夫が居る。 1897年、広島市に生まれる。中学生の頃から竹久夢二に憧れ、夢中で模写にふけったという。また同じ頃、イギリスの挿絵画家ビアズリーの作品にもショックを受けている。本画や詩、和歌、刻印など、芸術的才能に恵まれた兄がおり、強く影響を受けたと思われる。中学校(現高等学校)卒業後は、大阪の赤松麟作(あかまつりんさく)洋画研究所で油絵を学んだ。 29歳の時、プラトンの東京進出にともない上京。雑誌の表紙デザインや挿絵、化粧品広告などに携わる経験を持ち昭和4年に資生堂にて、その才能の熟成と発揮をする重要な場なる。街が華やかに活気を帯びてきた1920年代。時代の象徴とも言えるモダン・ガールを独自のタッチで描いて脚光を浴びたデザイナーとして、彼が表現する装飾的で美しい女性像は、繊細で官能的。その作風から「デザイン詩人」とも呼ばれました。現在の花椿のマークはあまりにも有名だが、今の形になるまでに大正7年ころからあった原型が、昭和49年にようやく山名の手によって完成されています。その後、資生堂を出たり入ったりしていたが、戦争のため退社。 1955年(昭和30)頃は、 スーパーマーケット紀ノ国屋の包装紙やロゴデザインに携わる。 1965年(昭和40)に日本デザイナー学院開校、学院長となる。多摩美術大学も講師として定年まで勤め上げたが、山名はかつての教え子に囲まれて杯を手にする時、大阪美術研究所・多摩美術大学での20年の意味深さを感じ、誰にともなく乾杯する人だったようです。。 1980年(昭和55) 東京にて永眠。享年83歳。没後日本宣伝クラブに「山名賞」が設けられ、第一回受賞者は永井一正さんです。
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