美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2006年6月
前の月 次の月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
最新の絵日記ダイジェスト
2010/05/12 大阪で昆布屋
2010/04/15 000000000
2010/03/08 次回は油絵を・・・・・
2010/03/04 浅田真央ちゃん
2010/03/02 遅くな諒としてください

直接移動: 20105 4 3 2 1 月  200912 11 8 1 月  200810 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200712 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200612 11 10 9 8 7 6 5 4 3 月 

2006/06/30(金) 大阪市立美術研究所・雑感 34
 ここの天王寺美術研究所は個性的というか、度をはずれた異端児も多く輩出している。その最先端が山田魂也氏であろう。
 氏の故郷は飛騨高山で高校中退後、京都で友禅染めの画工を五年続けていたが、ある日、京都河原町で大きな衝撃を受けるのである。
 それは睦ちゃんという両腕のない絵描きが口に鉛筆を加え似顔絵を描いていたのを目撃したからだが、それは山田氏自身「せむし」という障害の劣等感を秘めていたからだろう。
 しかし、この時より彼は自分の肉体的なマイナスを、精神的なブラスに逆転出来るはずだという信念と、自分は特別に選ばれた天才なのだという自負心と、使命感が湧き上がるのだ。丁度哲人キルケゴールが「せむし」であった様に・・・
そこで彼は友禅染めを即刻止め、昼は天王寺美術館に通って石膏デッサンをやり、夜は京都で似顔絵を描き始めるのである。
 もう一つの衝撃は似顔絵にも馴れ、日本一周旅行も終え、新宿歌舞伎町に立った時である。
 彼自身フリークスを認識し、アウトロウと自覚していたから酔っ払いやチンピラヤクザ等の人間にはビクともしなかったが、ただ一群の若者達だけが彼を苛立たというのだ。それは髪を伸ばし、ヒゲを生やし、ズタ袋を肩にした彼等は高度経済成長と繁栄を否定し、その拝金主義と物質文明に反抗し、自然との共存共生と、意識の進化を目指して生きていこうとする流れであり、混沌の一九六0年代に端を発する、我国のニューエイジの覚醒と行動の発端であったのだ。
 「ヒゲの殿下」とアダナされていたナンダ。「新宿のランボー」と言われたナーガ。東京芸大出のクボゾノ等に洗礼を受け、東京・国分寺に「エメラルド色のそよ風族」長野・富士見に「雷赤烏族」鹿児島・諏訪瀬島に「がじゅまるの夢族」のコミューンを建設していくのだ。
 止まれ! この事はまた重複するきらいがあるので、革命論を多く著作されている大田竜氏の言葉を借りる。
 「(奄美革命論)の中に詳しく書かれている様に、山田魁也氏は一九六0年代半ば頃から、日本における反文明的ヒッピーコミューン運動、部族運動、対抗文化運動の前衛の位置に居り、次にトカラ列島の諏訪瀬島にヒッピー道場を作り、またインドを放浪してインドに惚れ込み、さらにこの島の観光化を企図したヤマハ資本運動ボイコット運動をえて、一九七五年に奄美の宇検村久志部落に無我利道場を作り、反対派宇検村民と共に東燃
技手久島石油基地化反対運動を推進してきた。
 彼自身の言葉を借りれば、彼の軌跡はアメリカ起源の白人対抗文化、脱文明のヒッピーとして出発し、インド思想を経由して「奄美ナロードニキ」に脱皮したという訳だ」
 ところが度かさなる右翼「松魂塾」の襲撃等によって解体、彼は故郷の飛騨高山にボロを飾るのだが、屈することなく縄文人の発想からの「ヒダマ道場」のコミューンを作るのだ。
 思うに本来の共同体である村落共同体とか家族共同体というのは現在崩壊した。だけど人間は本来共同体的な存在であるという意味で共同体を作ろうと云う動きその物は、非常に人間的で本能的だと思う。しかし、今はその事も考えるのは止そう。氏こそつまらぬ絵を描いている奴より歴史上に残る人と確信する。

氏は大変な活動家であるが紹介しきれないので、出版した本だけ書いておこう・・・

『詩集ポン』
 1971年 自費出版
 最初の大麻体験から生まれた詩「ポン」をはじめ、60年代ヒッピームーヴメントの中で目覚めた詩魂。  
『魚里人』
 76年創刊号 78年2号
 奄美の石油基地反対闘争の現地に築いたヒッピーコミューン“無我利道場”の生活と運動の日々を共同執筆。  
『奄美独立革命論』
 80年 三一書房刊 
 「MAT「徳之島核再処理工場)計画」に対決して、脱ヤマトンチュウの私が『革命論』を、島人の新元博文が『独立論』を書いてハッタリをかました。  
『詩集オーソレナガラ・バカフレムン』
 84年
 反ヤマト、反日、反天皇の立場から、東アジア反日武装戦線など政治犯への死刑・重刑攻撃に抗議。  
『アイ・アム・ヒッピー』
 90年 第三書館刊
 『日本のヒッピームーヴメント‘60〜‘90」というサブタイトルをつけた赤裸々な個人史。週刊誌やテレビなどでも注目された。

『スクナ』上・下
 91年 新潮社
 「日本書紀異聞」とサブタイトルにあるマンガ2冊刊。この原作を山八喜村のペンネームで書いた。内容は、日本書紀の中にわずかに記された飛騨高山の英雄スクナについて、大胆な解釈を加えて描いた古代史スペクタクルロマン。

『マリファナX』
 95年 第三書館刊
 多数の共同執筆によるマリファナ・シリーズ決定版。私はマリファナとLSDの初期体験を書いた他、故人となった青山貢、山田竜宝という“仕掛け人”たちとのインタビュー記事を載せた。

『トワイライト・フリークス』
 01年 ビレッジプレス刊
 季刊『雲遊天下』に97年から4年間連載されたエッセイをまとめたもの。東南アジア・インドへの最後の旅から祭りやレイヴ、酸素吸入器の使用、大麻事件、そして再度の「ふるさとさらば」まで。在庫あり、定価1800円。

『麻里花詩集』
 04年 自費出版
 桂川救援運動のための起爆剤として、最近2年間の13篇の詩をまとめた。

2006/06/29(木) 大阪市立美術研究所・雑感 33
 話は逸れるが、古今東西、天才とか名を残しているものはフリークと言われる人が多い。それは機能障害を抱えて生きていたという、その欠陥をカバーするために他の能力が異常に発達するのだろうか。常にうわの空のエジソン、癇癪持ちのアインシュタイン、外国語のできないレオナルド、古典嫌いのアンデルセン、付き合いべたなベル、落ち着きのないディズニーなど数をあげればきりがない。その点日本は画一化教育で、日本人にとって「個性的な=独創性を備えた人間」は気狂い、不審者という半ばトラウマのようなレッテル貼る故、個性的な人物が育ちにくい土穣なのかも知れない。しかし、石井元氏のようにバリ遊学中、バスより手を出していて引き裂かれとか、山田魂也氏のように生まれなからセムシとかいうフリークと言われる人が大いに活躍している。
 藤田龍児氏の場合は、1976年に脳血栓の発作により命さえ危ぶまれたが、脳切開手術が成功して奇跡的に一命を取り留めた。しかし画家の生命とも言える右手は麻痺して使えず、片言をしゃべるのもやっとという状態だった。一時は画家の道をあきらめ、自宅にあった旧作のほとんどを破棄した。ところが4年にわたる懸命のリハビリの結果、左手で絵筆を握ることで画家として再出発を計るようになった。毎日、毎日、ひたすら地べたを見つめながらよたよたと歩いた。野の草花の美を発見し、虫たちの動きにも目を留めるようになった。とくに<啓蟄>は、長い闘病生活から抜け出た画家藤田龍児が、画壇に再復帰を高らかに宣言する記念碑になったのである。脳溢血で倒れる前より、一段と光輝を発する作品を見るたび感動を覚えるものである。

藤田 龍児 のプロファイル

1928(昭和 3) 京都市で生まれる。
1951(  26) 大阪市立美術研究所に学ぶ。(1954まで)
1959(  34) 第19回美術文化展に初入選。<擬体>
1961(  36) 第21回美術文化展に出品、
1976(  51) 脳血栓で倒れる。
1977(  52) 脳血栓再発、脳切開手術で奇跡的に助かる。
         大阪市立美術研究所30年記念展に出品。<於能基呂島山水の図>
1991(  3) 読売新聞日曜版「日本の四季に<啓蟄>掲載。
1994(  6) 小説『夢に殉ず』(曽野綾子作)の表紙装画。
 以降、続々話題作発表、画壇の寵児となる。
2002( 14)8月9日逝去(73歳)

2006/06/28(水) 大阪市立美術研究所・雑感 32
 人体部のヌードモデルをしているご婦人?は何でも踊りのお師匠さんで、時には昼休みなど踊りを見せてくれ、俺はそちらの方に魅力を感じ、女という動物は七変化する生き物など奇妙に感心したのを憶えている。一方、研究所マドンナの船場の貿易商のお嬢さんを誰が陥落させるか興味深々で様子を伺っていると、何と油切った、四角顔の九州男児・小林善幸がモノにして俺をまたもや驚かしたものである。「何!!女などは絵と一緒ですたい。情熱と押し、後はテクニックですたい」と言われ、俺を変な妄想にかきたてたモノである。女性は辻司氏のような端正な顔だちで絵画部から出てきては、暗い美術館の地下室で髪を掻き揚げ辛吟しているような男に惚れるものと思っていたが残酷なのは女の正体だ。と言うのもそのマドンナが或る時「ちもとさん、似顔絵あまりやると絵を壊すわよ」と忠告されたのである。ところがどっこい、西宮恵比寿まつりに行って見ると、小林と二人でせっせと似顔絵を描いているではないか。その後も梅田・曽根崎通り商店街で本当の似顔絵師になってしまっていたのだ。何でもパリに行くお金を貯めているという話であったが本当にパリに行き、モンマルトルの似顔絵のボスに納まっておられる・・・・ 
 一方、辻 司氏は無事、女難から逃れ絵画部を卒業されている。辻氏は以下の経歴だが、皆さんはどちらの方が幸せだと思われますか?

辻 司氏略歴
1933年 大阪府泉佐野市に生まれる
1959年 全関西展一席
1960年 大阪市立美術研究所特待修
1968年 行動賞、会員推挙
1972年 昭和会賞(第7回)
1984年 宝塚市民会館緞帳制作 
他、 個展20回
現 在 全関西展運営委員、元大阪芸大教授
大阪市立美術研究所 講師 

2006/06/27(火) 大阪市立美術研究所・雑感 31
 人体部のピカピカの一年生である。美しい女体像をかけると思って胸ワクワクさせていると、何とモデルさんは四十代のでっぷり太ったあまり綺麗でない人でガッカリした。しかし、石膏より生きた人間の方が四十であろうが、五十であろうが描く対象が血の通っているほうがいいもので、それから、毎日、真面目に研究所に通ったよ。人体の中には小林、長瀬、藤田などという人物とすぐ仲良くなり、青臭い芸術論を口角泡飛ばして語り合ったのも懐かしい思い出だ。長瀬が青白い顔に垂れ下がった髪を掻き分けながら言う。「ちもと、デッサンは大阪と東京と違うんやで、大阪のはマッスを重視して、バックまで黒く塗るやろ。東京のはムービマンと言って、腺の流れを重視するんや」そういう彼のデッサンは小磯良平を想起する華麗な流れの腺を創出していく。手はピアノでも弾かせたらいい音色を出すだろうと異様に長い指を見ていた。彼は夜間の阿倍野区役所近くにある工芸学校にも通っているらしい。この工芸学校は六年制でやはり変わった人物を輩出している。漫画家の淀川三歩、或る虫象。イラストレーターの白津美千代、鯛焼きソングの足の出た鯛のデザインで一億円近くを手にする田嶋司などだ。勿論その頃の彼等彼女らには金がなく、俺の似顔絵の手伝いをして貰っていた。研究所の費用は月八百円だったが、それでも払えぬ奴がいて、滞納しても研究所側もとやかくいわなかった、と記憶する。 
 現代はどうなっているのか、今通っている知り合いに聞いてみると以下のようであるらしい。

1 石膏素描(前期)
石膏頭身像を中心に研究を重ね、基礎的なデッサン力を身につけます。
 2 石膏素描(後期)
石膏半身像を中心により確かな素描をめざします。
 3 人体素描
石膏(前期・後期)で研究した内容をふまえて、人体(裸婦)をモデルに人体のバランス、骨格など把握します。
デッサンの総合的な力を養い、自己の作品とのかかわりを深めていきます。
人体素描を進級したら、絵画科か彫塑部を選択できます。
 4 絵画科
素描研究で習得したデッサン力をもとに、完成度の高い表現、それを支える描写、技法を研究します。
人体のマッス(量、かたまり)と色彩を通して培ったデッサン力を独自性のある個性豊かな絵画世界へと展開していきます。    5 彫塑部
塑像制作を中心に人体(裸婦)を研究し、立体への再構築を試みます。立体の基礎知識から形成(石膏取り)まで、様々な探求を続け自覚的な制作を展開していきます。
《 講 師 》
中井 英夫・辻    司・久保  晃・松本 秋美・祢宜 吉子
山田 正二・定森  満・大坂 一成

《 研究時間 》
1 月曜日から土曜日の午前9時30分から午後4時まで、各自随意とする。
2 日曜・祝日及び年末年始は休日

《 入所手続き 》
1 入所検定  4月・10月の年2回
2 所定の「入所検定申込書」に検定料3,600円を添えて検定当日に提出。
《 入所料・研究料 》
1 入所料      5,400円
2 研究料(月額) 石膏 前期・後期    4,800円
            人体、絵画、彫塑   7,200円
《 その他 》
美術館において、年1回自由課題作品の研究所展を開催します。
研究生対象の特典として、美術館主催の無料観覧や各種美術団体の特別割引料金での観覧等があります。

 それにしても安い、ご希望の方は入所をお勧めしますよ。ただし、ここは押し付けしないので己の心がけ次第です。

2006/06/26(月) 大阪市立美術研究所・雑感 30
美術研究所の試験日だ。久しぶり出席して真面目くさって石膏デッサンをやっていると、後ろで含み笑いがする。「この野郎!!」と怒鳴りつけようとふりかえって見ると、行動美術の小林武夫先生だ。先生は私が箕面出身の同郷のよしみか何かとご迷惑をかけているのである。「ちもと、何時もだが君のデッサンは細かすぎるよ。木を見て、山を見ず、という諺もあるやろ。あまり見すぎて描くのも考え物もんや。一度、そのデッサンを逆様にして見てみい」と言って次の部屋へ立ち去っていかれた。なるほど絵を逆様にして見ると細部があっちこっちで出張っているのだ。俺のデッサン紙はミユーズコットン紙で何度でも描き直し利く代わり、細部まで手が出てしまうのだろうか。思い切って腺の入ってない裏を使う事にした。そして一週間で仕上げるのだが金曜日、デッサンを家に持って帰って、逆様にしたり、横にしたりして、余分なものを省いて提出するとなんと、とんとん拍子に合格して人体部、つまり、あこがれの女の裸像が描ける部に進級したのである。ひょっとすると川口氏推奨の猫の肉とオム・タイジンの菜食主義がよかったのだろうか、それはいまだに疑問で信じてないが・・・・。

 ところで行動美術に参加された小林武夫先生の略歴は私はあまり知らない。 田川 寛一、三芳 悌吉、伊藤 久三郎、伊藤 信夫、河野 通紀、下高原 龍巳氏などで戦後早々、旗揚げされたメンバーとは聞いているが。 

 ただ私も箕面まつりに同級生に呼ばれ箕面に帰ったとき、市の広報に次のような文面でご他界されたことを知って痛恨の思いを味わった。


 小林画伯親子の作品に触れる
 7月18日(祝)、みのお駅前サンプラザ市民ギャラリーで開催中の小林武夫遺作展に行きました。
 100点もの作品がご遺族から市に寄贈されて、その作品の一部が展示されることになったのです。二科展、行動展などで数々受賞された小林画伯の作品は、全体に牧歌的なものが多くみられました。今後もぜひ、多くの市民にみていただきたいものです。
 ちょうど伊丹市立美術館では、息子の小林陸一郎さんの作品展の最終日でしたので、足をのばして見に行きました。彫刻家、陸一郎さんの作品は、カラフルで想像力をかき立てるものでした。伊丹市内を歩くのは、私にとって初めての経験。美術館だけでなく、柿衛(かきもり)文庫、伊丹ホール、アイホールなど、文化施設が多く、文化の盛んなまちとの印象をうけました。箕面には小林親子のような芸術家の方々が多くすんでおられます。箕面ならではの文化のまちづくりができるはずです。


 尚、息子さんの睦一郎さんは著名な彫刻家です。
 小林先生のご冥福を祈って・・・・

2006/06/25(日) 大阪市立美術研究所・雑感 29
 私のアトリエ?は阿倍野の真裏、松崎町にあった。そのアパート名は「近海荘」といった名前の事は前に記したが、近所の人は「奇怪荘」と呼んでいた。それは三階建てなのに外から見ると二階建てなのは1階が地下に埋没しているからで、それと住んでいる人間が変わった人ばかりであったからだ。我々はそんな部屋でモグラように生活してわけだか、近くに大阪美術研究所、大阪工芸学校があるし、このアパートの住人は先程言ったように売れない芸人、オカマ、露店商、はては何で喰っているのか解らない人たちばかりであった。しかし、私は彼等より多くのものを学んだ。とりわけ三階に居住する作家・小田実の主催する「なんだいべ」ヒッピー・イズムを提唱する詩人のオム・タイジンやチビグロ君、ゲリー・シュナイダーなどである。
 そんなある日、友達が釜が崎で百グラム20円の肉を大量に買ってきた。すぐ皆を集めてスキヤキ・パーティしたのだが、不思議に誰も肉に手をつけうとしないのである。鍋も白い泡が吹き出し、石鹸くさいのはきっと猫の肉だったのだろう・・
 しかし、そんな中で一人黙々喰っている奴が美術研究生の川口由一君だったのである。彼は医食同源を説き、福島正信氏の自然農法を説き、いかにいまの食栽培が間違っているか、とうとうと説くのである。農薬、況や人間の操作した食物を食べ続けるなら、21世紀にはおおくのを心の病を抱変えこんだ人間が続出するであろう・・・・と我々を嚇かすのだ。今、思うと川口君の言った通りになってしまったが・・・・

川口由一氏略歴

自然農の心と実践川口由一 著 掲載 1998/09/25
1939年 奈良県桜井市に、専業農家の長男として生まれる。
小学6年の時に父と死別し、中学卒業後定時制高校で3年、天王寺美術研究所で6年間学びつつ、農家の主たる働き手として、当時はごく当たり前の農薬を使った農業を営む。

1978年 農薬で体をこわし、自然農に切り換えるべくその方法を模索し始める。同時に漢方医学と出会い、「生命の営みに沿った農」を目指す。


1987年 この頃より野草社発行の「80年代」誌に「妙なる畑に立ちて」を連載。田畑の見学会、合宿会など、自然の農を求める人々と共に学ぶ場をつくる。


1991年には赤目自然農塾が始まる。


現 在 自然農の学びの場は全国各地10数カ所に増え、漢方学習会も全国5カ所で定期的に行われている。

2006/06/24(土) 大道絵師の自然観より・・
 私の美術研究所時代だから30数年前のことです。まだ阿倍野「大阪」周辺にも雑草のある空地があって月見草が咲いていた。風流気のある友人がそれを摘んで酒ビンに挿しておいたのだが一向咲こうとしない。ツボミは今にも咲きそうに膨らんでいるのだが「この部屋は地下室で一日中電気を点けていた」それが何かの弾みに停電し、今度、点灯したとき皆、いっせいに歓声をあげた。それは月見草が全部といってよいほど咲いていたからである。つまり月見草は明るい所では咲かない性質なのであろう。宇宙の大自然というのはこんな可憐な幽かな花にでも、大自然の法則というものがあるのだなと感動したのと、同時に人間も大自然の法則には逆らえぬと思った訳です。
 ところでこの地下室は梁山伯といわれるほど、色んな人間が出入りしていたのてす。同学の美術研究生。ベ平連。ホームレス。変わった所ではヒッピーや宗教関係者等集まり、若者特有なとりとめのない話をしておりました。しかし、そのとりとめのない話の中で教えられることが一杯あったのです。例えば後年、全国をニガオエ旅に出るのは美術研究生から聞いた「自分の印象に向かって行け、自分
自身を自然の中に包めよ、自分の全部を自然と飽和せしめよ」という画家ルソーの言葉に影響を受けていたからだと思います。ベ平連の連中にはベトナムで無差別にばら撒く、米軍の枯れ葉剤の恐ろしさもさることながら博物学の巨人・南方熊楠を教えてくれたものでした。教えてくれた彼にとっては熊楠の強烈な行動力が発散する生命の燃焼音が、頭でっかちの彼を生きるという緊張感に新鮮さを感じたのではないでしょうか。ところがこの熊楠こそ日本における生態学「エコロジー」自然保護運動の先駆けでもあったのです。エコロジーという言葉が熊楠の手紙に出てくるのは、今から87年前、明治39年、政府が神社合祀令の名のもとに国をあげて自然破壊を決行した時の事です。「生態系の破壊は人間の生活を破壊し、人間性そのものが荒廃していく!」そう叫んで熊楠は日本中でただ一人抵抗し、投獄17日間に処せられるのです。「自然を守れ、人間を守れ」と。
 そういった熊楠の生家の近くから、ああいう少年が出てくるのも何か因果応報のような気もするが、これからますます病んだ人間が増えるのを恐れるのは私一人だけであろうか。

写真は近鉄百貨店前で志集(詩は志でなければならないから)?を売る若き俺の写真。勿論、この金は「ベ平連」にカンパしていたし、こういうギターで歌をうたいながら大道でやるのは俺が嚆矢であろう(明治のオッペケ節、書生を除いては・昭和48年頃)

2006/06/23(金) 大阪美術研究所・雑感 28
 男ばかり描いてきたのでここで研究所マドンナを紹介したい。況や、ここ天王寺研究所創設者は赤松燐作で、そのお嬢さんが元文相・赤松良子氏であり、氏は男女参画を提唱した人でもあるからである。まず一人は「姫様」と呼ばれるマドンナで船場の貿易商の娘でまさにお姫さまを想わせる大和撫子であった。彼女は私の一期上の小林善幸氏と一緒になり、パリのモンマルトルで人気者の似顔絵描きになり、勿論、油絵制作にも励んでおられる。もう一人は何でも大塩平八郎のご子孫であった陽子さんだ。彼女は我等のグループで一時は私の彼女になった人でここで描いていても色んな事が懐かしく想い出される。その中でもとりわけ華やかであったのは「アーチャ」と呼ばれていた混血児のお嬢さんだ。
 この「アーチャ」という娘が研究所に入ってくるだけで、それでなくともうす暗い部屋が華やかになったものである。彼女がくると各部、各デッサン室から生徒が覗き見するぐらいの、まさにマドンナと呼ばれるに相応しい人であった。
 彼女は現在、浦地思久理と改名し、テレビ、イラスト、時には映画監督までするというマルチ・タレントなみの活躍をされている。彼女自身語る略歴を提示しょう。
 アングリカンチャーチの牧師の第一子として現代に転生。
牧師が人様の結婚式の司祭を勤めている時の出来事であった。
物心ついた頃には、一日中絵を描いていた。
小学生の時、高校受験を拒否宣言。絵以外の事を考えたく無かった。
富田林市立金剛中学卒
あまりに頑固に言い張った為、親が妥協案として出した、定時制高校の奨めをのむ。
中学卒業後、昼間は天王寺の大阪市美術館美術研究所(通称モグラ)で、毎日朝から夕方まで三年強、石膏デッサンを続ける。
その後大阪市立第二工芸高校卒(4年制)
1985年頃からD・K・ウラヂという名前で、いつの間にかフリーイラストレーターとして活動。
2001年、浦地思久理と改名。
1992頃より、とある深夜番組を切っ掛けに、関西のテレビ番組のためのイラスト制作中心となる。
番組は、たかじんONE MEN、たかじんナオコのシャベタリーノ(オープニング)、見参アルチュン(レギュラー)、よるこ、テレビのツボ(レギュラー)、屋台の目(レギュラー出演)、空想科学番組、今夜はえみ〜GO!、みかさつかさ、いい朝8時、水野真紀の魔法のレストラン、上沼恵美子のおしゃべりクッキング(オープニング)、元気家族(レギュラー)、元気情報局(レギュラー)、怪傑えみちゃんねる(レギュラー)、いつでも笑みを!(レギュラー)、痛快エブリデイ、今晩何たべたい?(オープニング)、夢小路紅子(レギュラー)、昼あがりど真中(レギュラー)、オクトお茶の間ショッピング、たかじん胸いっぱい、キンダーフェスティバル、KIP!(レギュラー出演)、週間えみぃSHOW、最後の晩餐、みかさつかさ、2時ワク!、ガラパゴス、・・・他。
雑誌、広告は、学生援護会an,salida,DODA(連載)、ぴあ、ぴあムックパノラマ版よしもと新喜劇、マンスリーよしもと、ジョイフル(漫画連載)、ダイハツ・オプティー機関誌MAT0PIA(漫画連載)、ナンバーズ、Hanako WEST、花形文化通信、教育総研び〜いんぐ うえい バイクボーイ(連載)、NEU HAIR くるくる(表紙連載)、ザッツ・ニュービジネス(表紙連載)、NICU(表紙連載)他。
朝日新聞日曜版、美術家森村泰昌プロデュース+echno +herapy in 中の島公会堂 一面全面の宣伝イラスト。美術家森村泰昌プロデュース+echno +herapy in OPA 宣伝チラシ イラスト。
日刊スポーツ イラストCity探検(絵と文 連載)、京都島津人形(マークエンブレムデザイン)大阪府医師会(ポスター、大阪府医師ニュースイラスト)森下仁丹スースー(宣伝ポストカード)、ロックバンド人間椅子コンサートチラシ、CDジャケット、レコードジャケット、他。

装幀イラストは、上野千鶴子著「私」探しゲーム-欲望私民社会論/ちくま学芸文庫、清水志津著 髪こそ女の生命/創芸社、他。
また、美輪明宏の舞台「黒蜥蜴」などの宣伝イラストや、雑誌、広告、似顔絵など、その都度変わるスタイルでイメージを制作。
本格的にPCでの制作を始めたのは2002年からで、ZBrushを使い始めたのも昨年の11月。
御堂筋パレードの御堂筋ショウウィンドウコンテストで、マツダ・ユーノスのウィンドウを担当。知事賞授賞。
1994年ビデオムービー「ダイヤモンド・アワー」(90分)を監督。SSE COMMUNICATIONSより発売。
今年に入り、兼ねてより惹かれていた、明治大正〜昭和初期の美人画や叙情画に立ち返り、日本的な空気感を持ちながら新しい感覚を持った絵を生み出そうと奮闘中。
今ハマっている画家は、甲斐庄楠音や島成園、外国ではBeb Deum、 作家は泉鏡花。

2006/06/22(木) 大阪市立美術研究所・雑感 27
 面白い事にこんな「大阪市立美術研究所・雑感」という雑文を書いていると、色々検索に引っかかるらしく、色んな方より「お叱り」や「懐かしい」というメッセージを頂く。中にはなぜ有名な誰々氏が出てこないのだ、という催促あるが、これは私個人の回想であって、大阪美術研究所を出て、何々芸大の教授になったとか、芸大志望相手の予備校的講師などは不思議に私の脳裏に浮かんでこないのだ。基本的には絵は教え、教えられるものではなく人間を追及するものだからであろう。
 その点、彫塑部の村岡三郎氏は精悍な顔付きで彼が向こうから歩いてくるだけで、精神が緊張したものである。現にこの村岡氏は西成を歩いてもどこかの大親分と勘違いされ、チンビラは横道へ逃げ込むエピソードもあるほどだ。 現に氏は空軍の特攻部隊に所属し終戦直後、九州の空軍基地から故郷である大阪への帰途、広島の惨劇を目撃している。それからの氏は生命の実存への問いかけとともに、鉄と硫黄の熱現象を表現とし、熔断した鉄、硫黄や塩、そして(機能や形状から人体を連想させる)酸素ボンベといった、身体や生命と根源的に関わる素材。その圧倒的な重量感と緊張感の背景には、つねに、自身の戦争体験と真摯に向き合う村岡の姿、そして現代における生と死をめぐる彼の批評が垣間見えてくるのである。こんなことを書いても平和ボケして己自身のことしか眼中にない若者には、氏の表現作は理解できないだろう。故にいい加減で止めるが、興味ある方は検索されたし。

1928= 大阪府に生まれる
1944-学徒兵と徴兵され特攻部隊に所属、終戦
1950= 大阪市立美術研究所彫刻部修了
第35回二科展 52回まで毎回
1960= 第1回集団現代彫刻展(池袋西武) 2・3回も
1964= 現代美術の動向(国立近代美術館京都分館)
1965= 第1回現代日本彫刻展でK氏賞 3回で大賞 2回、4回、5回、9回も
1972= 第2回現代国際彫刻展(箱根彫刻の森美術館)
1973= 第1回彫刻の森美術館大賞展
1974= 第11回日本国際美術展
日本近代彫刻の展開(神奈川県立近代美術館)
1983= 現代日本美術の展望(富山県立近代美術館)
1987= 村岡三郎1970-1986展(大阪府現代美術センター)
国際鉄鋼シンポジウム−YAHATA(北九州市)
1988= OLYMIAD of ART−野外彫刻展(ソウル)
抽象彫刻の形成期(練馬区立美術館)
1989= ユーロパリア・ジャパン(ゲント市立現代美術館)
1990= 第44回ヴェネツィア・ビエンナーレ
STUCKI 2(バーゼル)
SAVOIR−VIVRE,SAVOIR−FAIRE,SAVOIR−ETRE(モントリオール現代美術国際センター)
1992= 語り出す鉄たち(東京都美術館)
1993= Invisible Nature(プラハ城ロイヤルガーデン他)
1994= 戦後日本の前衛美術(横浜美術館他)
1996= 大阪市立美術館付設研究所の50年(大阪市立美術館)
天と地の間に(名古屋市美術館他)
1997= 第2回光州ビエンナーレ
村岡三郎展(東京国立近代美術館他)


2006/06/21(水) 大阪市立美術研究所・雑感 26
大阪美術研究所の先輩であり、失礼たが似顔絵で非常に迷惑かけた横塚氏を紹介する。だいたいここでは人体部に進級すれば「京都芸大」人体を卒業すれば「東京芸大」は確実に入れるといわれている。この横塚氏もここより「京都芸大」に進んでいるが、氏の腰を落ち着ける場所がないのか、腰を折っている所が氏らしい。  横塚 駿 
 1936年 長崎にて生まれる
 1955年頃 大阪美術研究所・人体部進級するが足遠のく。
 1960年 京都美大洋画科中退
 以来日本美術会、関西美術家平和会議、集団造形などの参画
 1978年 すべての美術家団体を脱退。以降フリー画家として今日まで生きている。個展は主として関西でほぼ年に1回以上開催した。

寒い朝

私が活動できる適温は摂氏18度+−8度である。朝は5時起き
するがもう師走の中頃になれば寒い。膝に毛布をかけジャンパーを背中に羽織り、石油ストーブをつけて椅子に丸くなっていた。似顔絵をインタネットですることにしてやっとホームページのあ
らましが出来た。似顔絵の見本が少ない。ことに子供と老人の
絵がいるのだが、まー仕方なく見切り発車ということにしよう。
私は三十代半ば頃から六年間、大阪の十三という歓楽街で似顔を描いて五人の妻子の生活を支えていた時代がある。街頭商売、「寅さん」のようにその日暮しだが旅はしない。初めてやった頃は同じような生活をする仲間を見よう見真似でやってみたが、彼らは大方デカダンで、酔っ払いで、麻薬を常習する者もいて、絵は似させることだけで、目にはピッカンコと輝かして金を稼ぐのであった。 私もそのまねをしていたが、その日はお客さんがつぎから次に来て目のまわる忙しさだった。ポケットに500円札をふくらませて仲間と帰りの電車の方に歩いていた。ふと道端を見ると、丸めた紙が捨てられていた。それは私が描いた似顔絵だった。もう少し歩くと仲間のO君の絵が破いて捨てられていた。私はショックだった。もうこんな絵を描いてはいけない。私は絵を描きながら家族と生きていくために似顔絵という商売をしなければならなくなったのだが、たとえ街頭であり500円という安い絵を描こうが、こんないいかげんな絵を描いてお金を稼ぐ癖をつければ本当の絵の方もかけなくなるだろう。「割り切ればいい」とよく言うが、割り切るということが本当はいことではないだろうか。
それは街頭で人の顔を描くのである。徹底的に描くというようなことは出来ない。しかし、できるだけ時間を引き延ばし、最低
は30分をかけて全力でいい絵を描かねばなければならない。私はそう考えたのだった。O君は絵の勉強をしてきたわけではないのでその話は理解されなかった。私はおせわになったO君と別れて一人で十三の歓楽街のネオン輝く路上で仕事をし始めた。わたしはそれ以来、似顔絵という言葉は仕方がないが、その仕事をデッサン力を身に付けるために利用するようにした。今から考えれば似顔絵の仕事は毒にも薬にもなる仕事だったと思う。もしもあの時、「割り切って」行くのでがいいと考えたならば、今ごろはまともな絵を描いていないだろう。その考えを通してたくさんの人たち、大方は2万人に近い人々の顔を描かせてもらった。それは私にとって楽しい仕事であった。老若男女、あらゆる職業の人々を描いた。すべての人々に何らかの魅力を感じた。毎日は感動の日々であった。しかし毎日自分の絵が未熟であると反省する日々であった。          
 この文に氏の似顔絵に対する真摯な苦渋を感じるのは私だけであろうか。

2006/06/20(火) 大阪市立美術研究所・雑感 25
ここの美術研究所の面白さは絵描きあり、詩人あり、設計士あり、芸大への予備校生あり、右翼・左翼あり、とにかくあらゆる人間が混在していることであった。そんな一人が河合勝三郎さんであった。
 氏はかつて若かった頃、彫刻家になりたかったと聞く。そのことは彼の作品を見るとよく理解出来る。その表現の中には描くという行為以上に、刻むと言う行為が重要な役割を担っており、作品はむしろ彫刻的であるからだ。
 作品の画面は、ドローイングによって削り取られ、そこには物質的で触覚的な精神の軌跡が刻まれた絵画が生み出されている。
作品からは絵を描くというよりは、作家の自己存在証明を画面に刻印するといった姿が目に浮かび上がってくるようだ。
 作品の存在感の強さは、縄文土器の表面に施してあるような物質的な絵肌にあるだろう。それは創作にあたってこれまで河合さんが『人はなぜ絵を描くのか』といった根元的な問題を自己に問いただしてきた証に違いない。彼の内なる思いは、先史時代の縄文人の美術の始源ともとも共通するかもしれない。 
 絵画表現の他にも河合さんの表現行為の中には版画がある。過去制作されてきたそれらの版画作品は、優美で、装飾性が強く平安時代の絵巻物を見るものに喚起させる。縄文と平安といった日本文化の根幹から系譜したような河合芸術は、西洋近代のモダニズムとの出会いによって時代精神を飲み込み洗練らされてきたように思える。それは、「縄文と平安」という長い時間に人のDNAに書き込まれた日本人としての先天的資質と「西洋の近代」との後天的出会いによって、ぶつかり交わり合って、体内で時間をかけてじっくりと発酵して生まれた独自性豊かな作品だ。
 新作品では、この絵画と版画を並列させた作品を生みだした。物質的絵画を版としてモノタイプを作り出し反転した形を提示している。転写の技法を使って陰・陽ともとれるようなならなる作品展開が試みられている。
1924 宮崎県に生まれる
大阪市立美術研究所に学ぶ
大阪市立工芸、美術専攻科洋画部卒
東洋信託銀行大ホールにて第11回個展
渡欧、1カ年ヨーロッパ留学
渡欧、南ヨーロッパをスケッチ
以後2000年までに版画展を15回
(阪急百貨店美術画廊他)
玉川高島屋S.Cアルテスパッツィオ(東京)
近鉄百貨店阿倍野店美術画廊(大阪)
ドイツ四都市にて個展(デュツセルドルフ、フランクフルト、プリーン、ブッペタール)
N.Y堺美術家交流展(堺市博物館)'99(N.Y)
文房堂画廊(東京)アートスペースフジカワ(大阪)
ギャラリーいろはに(堺)
第1回BRODGE展=N.Y、堺美術家交流展
コートランド、ジュセップ画廊
(N.Y及びプロビンスタウン)

2006/06/19(月) 大阪市立美術研究所・雑感 24
小出卓二氏の兄・三郎氏を紹介する。
1908年 大阪市東区内久宝寺町に、小出一也・園香の三男に生る。洋画家故小出卓二(行動美術協会創設会員)は次兄。
1926年 大阪府立天王寺中学校卒。大阪市立美術学校に一時通う。程なく大阪信濃橋洋画研究所に入り、小出楢重、国枝金三、鍋井克之、黒田重太郎に指導を受く。
1932年  第2回独立展、入選(初出品)
1940年  第10回独立展、「艪とたらひ」で独立協会賞
1941年  第11回展独立展会友推薦、同年より無鑑査出品の資格得る。
1947年  第15回展独立展会員となる
1954年  独立会員春季展に「赤いドレス」出品
1956年  田中佐一郎、中間冊夫、菊池精二、中村善種らと「いちい会」結成。以後、1964年まで、独立展、いちい会展に毎年出品
1964年 11月自宅で倒れる。阪大病院入院、退院後自宅療養
1967年 9月再発、死去
1968年 3月小出三郎遺作集刊行、京都独立展に遺作30点陳列、4月第5回関西独立展に遺作40点特別陳列
1978年 2月28日から3月12日、東京セントラルアネックスに於いて、小出三郎遺作展開催

 天王寺中学校(現天王寺高校)同窓会の桃陰会館には、信濃橋洋画研究所で指導していた鍋井克之、新燈社美術研究所主宰の青木大乗(日本画)、次兄の小出卓二、2年先輩で独立会員の島村三七雄、等々の卒業生の作品と共に、小出三郎作品「水着の女」「けしの花」2点が所蔵されている。
 遺作集年譜によると、1954年46歳 第22回独立展に「水着の女」「六甲」出品。独立会員春季展に「赤いドレス」出品 との記述があり、桃陰会館所蔵の「水着の女」は独立展出品作品で、藝林月報第63号掲載「赤いドレス」と同時期の作品の可能性が高い。つばのやや広い日除け帽子を頭に載せた水着の女性の立姿で、体の量感の表現を強く意識した作品と思われる。「けしの花」は白布の敷かれた机上に、2つの筒花瓶のけしの花、美術雑誌(?)などが配された静物画で、整った背景の表現などを見ると、1935〜40年ごろの作品だろうか。
 信濃橋洋画研究所は、大正13年4月3日、鍋井克之と小出楢重が、国枝金三、黒田重太郎を誘って開設した。当初は美術家のクラブのようなものをつくり、経営策として研究所をやってゆく構想だったようだが、研究所が大発展し昭和19年まで続いた。当時美術学校の洋画科がなかった関西で、その後活躍する作家を数多く輩出した功績は大きい。
 信濃橋洋画研究所で学んだ後、第2回独立展へ初出品初入選を果たす。
 独立美術協会では、飯田操朗、今西中通と同年生まれ。飯田操朗は姫路中学を卒業後、信濃橋洋画研究所に通った時期があり、小出三郎と何らかの交流があったのではなかろうか。飯田はその後上京して太平洋画会研究所、本郷洋画研究所に学び、第1回独立展で初入選、3回展では海南賞、5回展では独立賞と、独立展での活躍は目覚しかった。1936年6回展で今西中通らとともに独立展会友に推薦されたのだが、同年10月29歳の若さで他界してしまった。今西中通も第1回展より出品、5回展ではD賞を受賞し、6回展独立展会友推薦、戦後1946年準会員推薦、1947年15回展独立展会員になるも同年4月死去。改めて言うまでもないが、今西中通は梅野館長が尽力されて、発掘顕彰し再評価された作家である。
 独立展で、同年代で忘れてならないのが菅野圭介である。菅野は1909年生まれで、飯田、今西、小出らとは1歳違いだが、独立展には1936年第6回展から出品(以後1961年まで出品)、8回展では協会賞、10回展独立展会友推薦、11回展で・氏賞、12回展で岡田賞、13回展独立展会員と華々しい活躍ぶりである。その後の数々のエピソードは周知の通り。今年「菅野圭介の会」が発足し、再評価・顕彰の機運が高まっている。
画像は「けしの花」小出三郎 

2006/06/18(日) 大阪市立美術研究所・雑感 23
大阪美術研究所の先生・田川寛一先生の替歌です。酒席では必ずこの歌だ。僕も身につまされます。
一. 売ってくるぞと勇ましく
  誓って家を出たからは
  金を持たずにいなれよか
  酒屋の看板見るたびに
  まぶたに浮かぶ妻の顔

二・筆も絵の具もみな切れて
  はてなきエスプリ求めつつ
  進むアブスト、リアリズム
  汚れたパレットなでながら
  明日のモチーフ誰が知る

三. 思えば今日も会場で
  塩たれ絵画とののしられ
  胸に刺さった五寸釘
  抜けども癒えぬ傷ゆえに
  痛む心を誰か知る

四. 絵描きをする身はかねてから
  貧乏覚悟でいるものを
  ないてくれるな草の虫
  塩たれ絵画描くために
  明日も命のあるように

田川 寛一
(たがわ かんいち)

1900-1988 大阪

赤松麟作に師事。1927年二科会展に初入選。全関西洋画展に出品、32年同会会員。戦後は行動美術協会会員となり出品。

 この歌を思い出すたびに昔は喰う為に必死だったが、心は豊饒だったよ。反対に現代は物が豊富だが、どうして心の貧しい人が多いのか、僕は大道で長年、似顔絵を描いていて悲しむよ。

2006/06/17(土) いや、横塚先輩こそ男でござる。
先輩は男でござる。



 横塚先輩、懐かしい情報有難うございました。
 研究所の喫茶店は「マロニエ」でしたよ。確かにマダムは上品な方でしたね。そして私みたいな無法者でも許容して頂いていたのですから、すごい人で田川寛一氏ならずともモデルにしたい人でしょうね。
 では研究所の画材店が「瑠樹」あるいは「月光荘」「河内」いずれであったのでしょうか。そこで私は画材を時々くすねておりまして、後であった時全てお見通しでお金はかえしましたが・・・・・
 いずれにしろ研究生には優しく、少しのことは大目に見て頂き、私が出世すれば御礼にいかなければならないのでしょうが、これは無理でしょう。
 ところで館長の望月氏は東大卒後、京大大学院修了。仏教美術・南画研究者、美術鑑定家の第一人者で我々ごときは足元にも近付けませんでしたよ。その方に抗議されるとはさすがtyan1126 先輩は男でござる。

 スケベな東光会の家永喜三郎、片腕の石井元、辻司、私はこの人はたいした人物ではないと思っていると案の定、大阪芸大教授におさまってしまってますね。それにしても行動美術の小林武夫氏が出てきませんね。氏は私と同じ箕面で非常に可愛がって貰いましたよ。それと日展の松田忠氏、この人もなぜか私に好意を寄せてくれましたよ。

 さて横塚先輩の絵「南京虐殺図」、私のホムぺに許可なく貼り付け申し訳ありません。三つのホムペにtyan1126 先輩のアドレスとともに公開していますが良き注文ありましたでしょうか。私は所詮、似顔絵描きですから油絵などや重厚な肖像注文はtyan1126 先輩の方に回すようにします。

 しかしホムペでの注文はあまり期待しないでください。私の注文は大半、大原美術館前でいただいたものですから・・・・

 本当に有難う御座いました。お互いローソクの炎のような年齢ですのでくれぐれも身体には気をつけて・・・・


2006/06/16(金) 大阪市立美術研究所・雑感 21
私の大阪美術研究所の先輩・横塚氏よりメッセージを頂いた。
小出卓二は男でござる、という題名である。

 僕が二十台で研究所にいた頃の講師で、もっとも骨のある人物でした。あるとき、僕が中心になって美術館図書館の閲覧をさせよと言う運動をしました。ちょうど研究所展のあとの打ち上げだったが、館長の望月信成が来ていて僕はそのことをみんなの前で訴えたのでしたが、小出先生が立ち上がって館長をとっちめたのです。美術館が研究所を全く大事にしていない、と激しく言うのだったんです。そして図書は開放されました。小出先生の夕日の絵は目に今も残る。一水会の安達茂は同輩。絵画部には前田さん、後に大阪芸大デッサン講師。多田統一、辻司。辻がデッサンを描いているのは見たことがないが。講師には、頭のはげたちょっと助兵衛な家永喜三郎。パリでバスの窓から手を出して腕を落とした石井元。僕は人体部から彫塑に入ってしばらくしてやめました。
この間、マロニエに行くとあのころ店にいたマロニエ夫人が僕に懐かしいと現れてきて挨拶してくれました。マロニエ夫人は84歳。だがなんと美しい老婦人か。田川寛一が描いた「マロニエ夫人」は名作だよ。

以上ですが、有難い文で私が研究所の喫茶は「瑠樹」と思っていたところ「マロニエ」で「瑠樹」は画材店だったのかな。確かに上品なマダムと記憶してます。 横塚氏の時の研究所長は望月氏で 美術史学者。父は仏教史学者望月信亨。東大卒後、京大大学院修了。京都博物館鑑査員を経て、大阪市立美術館館長・大阪市立大学教授となる。退職後、帝塚山学院大学教授を務めた。仏教美術・南画研究者、美術鑑定家としても活躍、重要文化財の発見などに業績をあげた。大阪市文化賞・毎日出版文化賞受賞。著に『日本上代彫刻』『一筋の細い道』等の経歴の立派な方であるが美術研究所長にはちょっと不向きという感がいがめない。横塚氏の「小出卓二は男でござる」の小出氏の略歴は
 1903−1978
 明治36年 大阪府生まれ。
 向井潤吉らとともに行動美術協会を設立。
 二科会会員。日本国際美術展。日本美術展。
 大阪府美術賞。小出楢重に師事。
・・・・ということになるが一度「マロニエ夫人」を拝見したい気持ち多大なり。画像は小出卓二氏の神戸港風景なり。


2006/06/15(木) 芸術で病んだ町や人を救おう・・・・
私は今の社会を救うのは芸術の役目も一つだと思っている。

 かんたんにいえば、「芸術」というのは、自己中心的で閉鎖的で独善的な芸術家が見せてくれたり聞かせてくれたりするもの。受け入れる側も、プライベートな状況で、あるいは、そのための特別の施設(ハコ=美術館やイベントと称して、そこで音楽活動や似顔絵を描く行為)の内部で感覚的ないしは精神的な快楽を鑑賞/享受するというもの。一方、「アート」は「人の中に入り、人と関わるもの」、「新たな価値観や世界観との出会い」を通じて「地域を活性化」させる「コミュニケーションのツール」であり、「触発的で、双方向的な」「開かれたコミュニケーションそのもの」であるはずである。

 私見によれば、「アート」は、「見て楽しい」だけではない。アートには、人やまちを生かす広く深い力がなければならない。人を幸せにし、癒し、元気づけてくれ、人の精神世界の多様さ・おもしろさを示し、わたしたちの「エネルギーの素」であり、生きる元気を回復してくれるものでならないと考えている。
 したがって、アートを鑑賞中心のものから、参加・交流型の「アートプロジェクト」へと進化させ、このプロジェクトを、社会とアートのインターフェイスとして活性化させることで、文化的に多様で豊かな社会を形成することが可能になるというわけだ。
 芸術を社会化(市民化)することで、地域共同体の「生活の質の向上」させるという、このどこかで聞いたようなプラン(文化庁の文化立国21プランとか、アーツプラン21?)は、とりあえずの「政策」としては悪くはない。ある面ではこの考え方も正しいし、じっさい「アート」の意味を行政側が理解して「芸術文化」支援が充実してくれば、この業界も潤うのはたしかだからだ。しかし皮肉な言い方を言えば、いままで行政側や街のエセ識者主導のもとで行われた支援は押し付けであり、却って本当に市民が求めているものとかけ離れすぎているのを痛感する。
 かつて江戸時代の日本では、浮世風呂や浮世床のような町民が自由に話し、くつろげる社交場が賑わった。17世紀のフランスのサロンは、ジャンルを超えた自由な思考や出会いの場であり、楽しみを共有しながら、相互に交流できる集まりであった。サロンの本質は、「会話」であり、会話を通じて、人を楽しませ、自分も楽しむことに最大の目的がある。そこから新しい価値が生まれ、さらに、ある種のマーケットが生まれてくると確信する。
 「箱」の中で行われるイベントはいくら立派でも、普通の市民にとっては不毛である。このことに行政側が気付かなければ(所詮無理だが)ますますストレスを抱えた人間が街を徘徊するであろうことを警告する。
 そういう意味で私の行動(大道こそ我が画室、学校、癒しの場であることを標榜する私見)を許容して頂いている、倉敷の人々、大原美術館、観光協会には感謝している。

2006/06/14(水) 大阪市立美術研究所・雑感 S
 大阪美術研究所ではたしか春と秋に試験があった。各部ごとに一週間で仕上げて提出し、それを東光会、一水会などの日展系と行動美術、新世紀会などの革新系の先生方で点数をつけ、60点以上なら進級するのである。俺は相変わらず前期のままで一日の半分は喫茶店「瑠樹」でだべっていた。そこに西成あたりから俗にいうオカマさんも来て、その中の一人と急速に親しくなるのだが、三輪明宏に似た綺麗な人であった。そのイイオカ・マヨさんがおっしゃるのだ。「ヒヨコさん。やはり芸術でも、俳優でも、スポーツ選手でさえ、一流の方はヘルマホロダイトを持っておられるわよ、貴方もそれを少し触れた方がいいわね」とおっしゃるのだ。俺は前に家永先生より「筆致は凛とした不動の強 さと、繊細で棚引くような円かさの両面を具備していなければ駄目だよ。雌花・雄花の両性花、つまり両性具備を持つ花。その合着している上にお釈迦が乗っておられるようなデッサン・・・」と謎のような話を聞いていたから、何か触発されるものがあった。そんな折、ここの卒業生であった、加藤氏の「切り絵の世界」の個展を見にいったのである。題材は天神祭や岸和田だんじり祭り、法善寺や中之島公会堂などを取り上げていたがシンメトリーの美しさが、俺の感性に突き刺さったのである。

 加藤氏は1931年生まれの、これまでいわゆる定職に就いたことがなく、もともと絵が好きで、高校卒業後は大阪市立美術研究所に入り、水彩画などを学んだり、絵画に取り組む中、描くことの省略を重ね、たどりついたのが白と黒の明解な紙きりの世界であった言うわけである。後、氏は大阪きりえセンターが設立され、代表におさまり、多くの後進者を育てておられる。

2006/06/13(火) 大阪市立美術研究所・雑感 R
 友達の小林は人体部でヌードを描いているというのに、俺は相変わらず前期でアグリッパの石膏デッサンだ。しかし、昼になると皆、80円の研究生ランチだが、俺はビーフ・テーキにビールである。松下電器の仕事もあり、それに夜、神戸、難波、京都と似顔絵を描きに行っていたから金はあった。それにしても京都の会津小鉄系の親分、神戸のプランタンと言うケーキ屋のおじさんにお礼をいいたい。ただ難波の場合、プラントン靴店の横で似顔絵をやらせて貰ったが、それだけではすまない。地回りのヤクザ・酒梅組と松田組がいるわけである。それが面白いことに同じ似顔絵を描いている先輩に小出という人が居て、どちらの親分か忘れたが今宮中学「現・今宮高校」の同級生で「自彊会」と言うOB仲間で子分も小出氏には頭を下げているほどであった。なんでも昭和八年八月二十日野球史を飾る投手戦25回を明石中学と戦い、紐帯は堅いらしい。お陰で一番いい場所でやらせてもらったよ。
 ところがこの似顔絵描きさんが小出三郎さんという有名な方だったのである。 
 大阪市東区内久宝寺町に、小出一也・園香の三男に生る。洋画家故小出卓二(行動美術協会創設会員)は次兄。
1926年 大阪美術学校に一時通う。程なく大阪信濃橋洋画研究所に入り、小出楢重、国枝金三、鍋井克之、黒田重太郎に指導を受く。
1932年  第2回独立展、入選(初出品)
1940年  第10回独立展、「艪とたらひ」で独立協会賞
1941年  第11回展独立展会友推薦、同年より無鑑査出品の資格得る
1947年  第15回展独立展会員となる
1954年  独立会員春季展に「赤いドレス」出品
1956年  田中佐一郎、中間冊夫、菊池精二、中村善種らと「いちい会」結成。以後、1964年まで、独立展、いちい会展に毎年出品
1964年 11月自宅で倒れる。阪大病院入院、退院後自宅療養
1967年 9月再発、死去
1968年 3月小出三郎遺作集刊行、京都独立展に遺作30点陳列、4月第5回関西独立展に遺作40点特別陳列
1978年 2月28日から3月12日、東京セントラルアネックスに於いて、小出三郎遺作展開催

2006/06/12(月) 大阪市立美術研究所・雑感 Q
佐伯祐三が一回生の卒業生であれば二回生に日本デザイン界の楚を作った山名文夫が居る。
 1897年、広島市に生まれる。中学生の頃から竹久夢二に憧れ、夢中で模写にふけったという。また同じ頃、イギリスの挿絵画家ビアズリーの作品にもショックを受けている。本画や詩、和歌、刻印など、芸術的才能に恵まれた兄がおり、強く影響を受けたと思われる。中学校(現高等学校)卒業後は、大阪の赤松麟作(あかまつりんさく)洋画研究所で油絵を学んだ。 29歳の時、プラトンの東京進出にともない上京。雑誌の表紙デザインや挿絵、化粧品広告などに携わる経験を持ち昭和4年に資生堂にて、その才能の熟成と発揮をする重要な場なる。街が華やかに活気を帯びてきた1920年代。時代の象徴とも言えるモダン・ガールを独自のタッチで描いて脚光を浴びたデザイナーとして、彼が表現する装飾的で美しい女性像は、繊細で官能的。その作風から「デザイン詩人」とも呼ばれました。現在の花椿のマークはあまりにも有名だが、今の形になるまでに大正7年ころからあった原型が、昭和49年にようやく山名の手によって完成されています。その後、資生堂を出たり入ったりしていたが、戦争のため退社。 1955年(昭和30)頃は、 スーパーマーケット紀ノ国屋の包装紙やロゴデザインに携わる。 1965年(昭和40)に日本デザイナー学院開校、学院長となる。多摩美術大学も講師として定年まで勤め上げたが、山名はかつての教え子に囲まれて杯を手にする時、大阪美術研究所・多摩美術大学での20年の意味深さを感じ、誰にともなく乾杯する人だったようです。。  1980年(昭和55) 東京にて永眠。享年83歳。没後日本宣伝クラブに「山名賞」が設けられ、第一回受賞者は永井一正さんです。

2006/06/11(日) 大阪市立美術研究所・雑感 P
 道草する。人間というものは己の夢を抱いて、その目標に向かっていると時に豊饒なる出会いをするものである。昨日、話した儀間比呂志氏と沖縄タイムズの新川明がいい例であろう。ところがこちら倉敷の楚を築いた、大原孫三郎の子息・総一郎氏もピカソや、 版画家・棟方志功との出会いもそうで、大原美術館をアカデミックからラジカルな美術館に指向していくのである。ところで戦時中、クラボウも「白菊」という特攻機を造らされていた。その仕事にあたったのが、沖縄より内地避難した沖縄の人たちであり、戦後、そういう人達で総一郎を沖縄に招いている。ますますアメリカナイズ化する本土と違い、豊富な沖縄民謡、民俗に触れた総一郎は感動するのである。「失われた日本は沖縄にある」と言わしめほど絶賛しているのだ。それが倉敷民芸を保護するきっかけになったのも、豊饒な出会いであろう・・・
 その総一郎を案内したのは新川明であった。

6月絵日記の続き


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.