美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2010/04/15 000000000
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2006/05/11(木) おおっ・・・・この麗しき風景よ????
おおっ・・・・この麗しき風景よ????
ああああああっ
・・・・・・・??

高度経済成長期にも不況時代にも
仕事のせいで自殺する人が絶えない日本。
これから団塊の世代がリタイアする日本。
仕事に対してやる気をなくし、わが道を行く人間が増えた日本。
ゆとり教育、という馬鹿なミスで何かが狂った(前から?)日本。



これからの日本はどうなるのでしょうか?
過去、バベルの塔を描いた作者でさえ、この非絵画的風景を創造出来なかったであろう。 

皆さん、眼をそらさないで、直視してくださいよ・・・

2006/05/10(水) 彼等と我々とどちらが人間らしいのか?
「前略」

 この噴水広場をメインに西は大阪城ホール。東はJR大阪城ホール駅であり、そのストリートをはさんで木立の中に青テントが点々と見える。
 まずはトイレと思い入っていくと公衆便所を一生懸命掃除しているおじさんがいる。
 「おじさんは市の嘱託の方ですか?」
 「しょくたく?しょくたく・・てなんや」
 「いや、市の方かと思いまして・・・」
 「何、言うてんねん。わしはここでお世話になっているもんやん」
 「・・・・・・・・」
 「あんさん、太陽は誰にでも日を照らしてくれはる。月も、空気も、月々、請求書もけえへん。感謝せなあかん。それでワイに出来ること、便所掃除させてもらてますねん」
 そう言うと、また、振り向いてかいがいしく掃除を初めだした。

 「健司、話がついた。すぐ帰れ」
 「留男、母危篤、連絡しろ」
 「新次郎、連絡乞う」                                                               こういう張り紙や書付が便所のあちこちに見受けられる。

「おじさん、ありがとう。食べさしだが弁当とタバコいおていくね」
 俺は便所を出た。ここ公衆便所の近くが住む人にとっては便利がいいのであろう。青テントというよりトタンで屋根をふいた小屋があり、扉まで取り付けてある。花壇をうまく利用した小屋もあり、その軒下には風鈴が下げられ心地よい音を鳴らしている。

 少しいくとコーヒのいい香りがしてきた。そこは皆の広場らしく椅子が三・四脚あり、そこで新聞を読んでいる人、自転車の手入れをしている人、犬にエサをやっている人、様々だ。コーヒを片手に談笑する空間はまさ野外のカフェだ。

 テントのドアの前に表札を掲げている人もいた。その名は「大阪城」。
 この「大阪城」さんは「自転車修理します」という看板も掲げている。ちょうど中国人らしい人がパンクを直しに立ち寄っていた。ここも屋根はトタンで網戸もしっかりし、古時計まで掛かっており、外観もここ住人のこだわりが見られる。

 よく見ると近所のホームレスそうでない老人達もきて楽しく話しているようだ。

 こういう一面を見ていると「豊かさって何だろう」と考えさせられる。少なくとも俺の日常は、朝ゆっくりコーヒを飲む時間もないし、家のインテリアに凝る気持ちのゆとりもないのだから・・・・
 

2006/05/09(火) 彼と我々とどちらが人間らしいのか?3
彼と我々とどちらが人間らしいのか?
 この方は大阪城のホームレス仲間から「アラカン博士さん」と呼ばれている有名な方である。時には進学校の先生が相談にきたりもするし、とくに登校拒否児に人気があって「学校など行く必要はない。やたらに知恵を付けられ、小利巧になるように教育を押し付ける。負けてはならない。勝たなければならない、と見栄や優越感を叩き込む。人を押しのけろ。騙せ、人を信じるなと諭させる。肩書きをつけろ、財産を持て、偉くなれと吹き込まれる。そのあげくが三菱自動車や日本ハム、森永牛乳みたいになるのよ。我々さえ森永や日本ハムは喰とらんし、ヒューザーの売っているようなマンションに住んで居らんし、アイフルから金など借り取らんよ。ワハハハハハ・・・」皆さんはどう思いますか?

2006/05/08(月) 彼と我々とどちらが人間らしいのか?
彼は瀬戸内海の岩国の人で漁師だったそうである。ところが岩国では東洋紡の工場が進出してきて汚染源のため、海の魚がすべて死滅したというのである。そこで東洋紡が死滅した魚を買い上げることに話がついたらしい。       それから毎日、漁船が帰ってくると、工場のトラックが待っている。魚種ごとに魚の目方をはかったあと、工場にはこび、タンクに汚染魚を捨てる。悪臭を放つ魚に、市場値の金が払われる。  はじめのうちは、取れば取るほど金になるので、精を出して出漁する人もいた。が、やがて漁師たちの疑いがふくらんでくる。毎日、海に出るのは、捨てるための魚を取るためではない。金になりさえすればよいと、いつまでも割り切れるものではない。たとえささやかでも、自分の仕事に何らかの意味がなくては生きていけない。 「何のための人生か。漁民だっておいしい魚を食べてほしいのだ」「情けのうて涙が出ます」と言い、そこを飛び出してこういうホームレスをしいるのだ。
 しかし、船員保険があるので何とかやっていけるが、もう一度、おいしい魚を取りたいと、とおっしゃっていた人だ。

2006/05/07(日) 仙台四郎について
仙台四郎は明治時代に実在した人物で、この四郎さんが立ち寄る店が皆繁盛した事から、「福の神」と言われるようになりました。(上の写真はとても幸せそうな笑顔をしていますが、30歳頃の写真といわれています)

 仙台四郎は本名を芳賀四郎といい、江戸末期に鉄砲職人の家庭に4番目の子として生まれました。生家は裕福だったのですが、いわゆる「智恵おくれ」だったため「しろばか(四郎馬鹿)」と呼ばれていたそうです。

 しかし、生まれつき智恵おくれだったわけではなく、7歳の頃に川(広瀬川)に落ちて流され、意識不明になった時から知能の発達が遅れたようです。

 その後四郎さんは街を徘徊するようになり、箒(ほうき)が立てかけてれば、勝手に店の前を掃いたり、店先にひしゃくを入れたままの水おけがあれば、これまた勝手に水をまく。といった行動をとったようです。

 やがて四郎さんが掃除した店は繁盛すると噂されるようになり、「福の神」と呼ばれるようになるわけですが、実際に四郎さんが立ち寄った店は客が入るようになったそうです。

 四郎さんが「福の神」と噂されるようになると、わざと店の前に箒(ほうき)を立てかけたり水おけを置き、四郎さんを招き入れようとする店が増えたそうですが、そのような下心のある店には寄りつかなかったそうです。

 四郎さんの知能がどれほど遅れていたのかは不明ですが、どうやら、直感的に自分を本当に歓迎してくれる店とそうでない店を見分けていたようです。そして、歓迎してくれる店が繁盛したということらしいです。

 また、四郎さんは、子供のように明るく、純真で、いつも笑顔だったそうです。体も丈夫で、四郎さんに抱いてもらった子供は健康に育ったとも言われています。
 その後何歳まで生きて、何時何処で亡くなったのかは諸説があり、よくわからないそうです。

こういう人こそ施設にいれず、我々の潤滑油であることをしらなければ ・・・・・

2006/05/06(土) 後藤さまへ・・・
後藤さま
 私は今日誕生日でした。
お花、蒲鉾、ノン・アルコール・ビール、シャツ、タバコ、絵の道具など頂く。
 くれた方はホームレスやその日に困る方達で、まさに貧者の一灯であり、何物にも変えがたい贈りものであった。

 涙を不覚にも流してしまったね

 以上のように制服着た人間よりこういう人の方が親切に教えてくれますよ・・・・

2006/05/05(金) 私の誕生日
倉敷小町に囲まれ至福のとき・・・・

2006/05/04(木) パソコン捨てて町へ飛び出そう・・・
パソコンの功罪、は非常に大きなものがあります。
もっと人と人のふれ合いを・・・

ただし、商業用、管理化された「箱」の中でのふれ合いは意味はありませんよ。

2006/05/03(水) 祭りで舟の上は花嫁さん
私の花嫁さんは良子さん・・・・

とにかく今日は色々ありましたな・・・

2006/05/02(火) 美観地区ハートランド前夜祭始まる
本日、夕方より前夜祭始まる。
美観地区たそがれ時より、かぐや姫が舟に点灯して、観客を魅了していた。

2006/05/01(月) ご要望に応じて・住みやすい町とは?
魅力ある街を構成している要素とは何か
米国の作家、テリー・ピンデルは、著書“A Good Place to Live”(住むのに素晴らしい街・1995)の中で、各地を旅した彼が考える素晴らしい街とはどのようなものか、経済活動が活発に行われていることを前提とした上で、街のよさ、魅力を構成する要素として、次の6つをあげている。

(1) The Cheers Factor ・・・(人々が歓声をあげたり、楽しく打ち解け合える場があること)
(2) The Foot Factor ・・・(自動車などに頼らず、徒歩で買物や用事などができる)
(3) The Cake Factor ・・・(文化的・自然的な快適さ、アメニティ)
(4) The Someplace Factor ・・・(ユニークなもの・どこにもない固有の何かをもつこと)
(5) The Comfort Factor ・・・(快適さ・居心地のよさ・気候のよさ)
(6) The Fudge Factor ・・・(意外性のあること ※Fudgeとは、柔らかいキャンディ)

4.“Third Place”(第3の場所)の重要性
“Third Place”とは、西フロリダ大学の社会学者、オルデンバーグが提唱した概念で、上記の“The Cheers Factor”の場ともなるものである。

すなわち、“First Place”が、家族がコミュニケートする場所、“Second Place”が、仕事仲間や勉強仲間がコミュニケートする職場・学校であり、これら両者が家族や仲間内という閉じられた場であるのに対し、“Third Place”は、不特定多数の人同士が出会い、集う、誰に対しても開かれた場で、特に都市で生活するためには、社会の中での精神のバランスを保つ上で必要といえる。

かつて江戸時代の日本では、浮世風呂や浮世床のような町民が自由に話し、くつろげる社交場が賑わった。17世紀のフランスのサロンは、ジャンルを超えた自由な思考や出会いの場であり、楽しみを共有しながら、相互に交流できる集まりであった。サロンの本質は、「会話」であり、会話を通じて、人を楽しませ、自分も楽しむことに最大の目的がある。そこから新しい価値が生まれ、さらに、ある種のマーケットが生まれてくる。

現代では、カフェや公共施設、ホールなどであるが、ストリートの商店街そのものや、地域の小公園など、住民だけでなく、来訪者や旅行者などにも開かれた憩いの場の存在が、その街の魅力を決定付けるといえる。そのような場の再生と集積が課題である。

また、オルデンバーグは、“Third Place”にふさわしいものとして、「スロー」であることをあげ、脅かすものとして、ファーストフードのような急いでものごとを済ます手法をあげている。最近、スローフードやスローライフが注目されているが、必然的な時代の潮流なのかもしれない。

このような試みを地域やコミュニティの形成に繋げていくことにより、街の賑わいとビジネス機会の拡大が期待できる。


例えば倉敷市美観地区では・・・

倉敷市の美観地区(倉敷川畔伝統的建造物群保存地区)の形成は、戦後、クラレ社長の大原総一郎が、「倉敷を日本のローテンブルグにしよう」と、町並み保存を呼びかけたことが大きな原動力となっている。西ドイツ南部の中世都市の面影を色濃く残すローテンブルグは、大原氏がドイツ留学中に感銘をうけた観光地で、第二次世界大戦で焼失した町並みを見事に復元し、歴史が市民の生活の中に活かされていることに彼は感動したのである。

今日の美観地区への発展の歴史は、倉敷川の水運と備中綿の活用による倉敷紡績所を創業した大原孝四郎に遡る。そして、父の興した紡績業に金融業を加えて企業を発展させ、西洋美術に関心をもち、日本で最初の西洋絵画の公開コレクションである大原美術館を開設した大原孫三郎、さらに、孫三郎の遺志と遺産を継承し、美術館を増築し、民芸運動の理解者となり、また、倉敷国際ホテルの設計やアイビー・スクエア、古民家などの再生設計をすすめた同郷の建築家浦辺鎮太郎のパトロンとして、ローテンブルグ構想を実現させた総一郎へと続いたのである。

倉敷には、天領として繁栄した富裕な土地柄が土壌としてあり、江戸時代から進取の気風を養い、強い独立心をもった市民意識を育ててきた。そのような伝統、恵まれた資産と、すぐれたリーダー、町並み保存の思想と実践が、現在の倉敷を形づくっているのである。


文化発信の場としての地方

倉敷は、音楽でも、戦後間もない昭和25年に、フランスからピアニストを迎えて演奏会を開くなど、早くから世界と繋がり、地方の国際文化交流の先駆けとなった。その後も特にロシアの音楽家達との深い交流があり、この街を愛するリヒテルやロストロポーヴィチらが何度も訪れるなど、地方の文化活動の重要な拠点となっている。

現在の大原美術館理事長、大原謙一郎氏は、「文化の世紀といわれる今世紀において、首都東京が、世界に発するメッセージは決して多くない。しかし、地方は世界に訴えたい多くのものを持っている」と語る。

日本ではあらゆるものが東京に集中しているようにみえる。政府機関や企業の本社、メディアも文化的イベントも東京に吸引されている。しかし、それは「あらゆるもの」ではない。権力やお金以外の「よきもの」とは、わたしたち日本人の心と生活――日本の文化、歴史、伝統、風習、年中行事などの中に息づくものである。

一見、あらゆるものが手に入りそうな東京の、博物館や図書館、アーカイブなどでの疑似体験しかできない文化や伝統行事が地方にはある。その「よきもの」がそれぞれの地方の個性をつくっている。それこそが地方のもつメッセージであり、多種多様な世界に対して、語りうるものであろう。


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