美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2006/05/31(水) 大阪市立美術研究所・雑感 G
大阪市立美術館・概説

大正 9 年 3月30日、市議会の決議により美術館設立が議決される
4月、設立のための調査委員会が設置される
大正 10 年 12月、住友家が美術館建設を条件に茶臼山本邸寄付を大阪市に申し出る
昭和 3 年 美術館地鎮祭が行われる
昭和 4 年 美術館上棟式
昭和 5 年 鉄筋コンクリート工事が竣工するが、世界恐慌により工事中断
昭和 9 年 美術館工事再開、外装工事が竣工
昭和 11 年 5月1日、大阪市立美術館開館 落成記念展は「改組第一回帝国美術展」
昭和 17 年 阿部コレクション中国絵画の寄贈を受ける
陸軍による接収をうける
昭和 18 年 小西家旧蔵光琳資料の寄贈をうける
昭和 19 年 住友家より関西邦画展出品作の寄贈を受ける
昭和 20 年 第二次世界大戦終戦
連合国軍による接収を受け、事務所を移転する
昭和 21 年 寄寓先の旧精華国民学校内に美術研究所を開く
昭和 22 年 美術館接収解除される
昭和 23 年 美術館での展示活動を再開する
昭和 26 年 博物館法の制定により教育委員会に移管される
昭和 52 年 大改修を行う(昭和54年度まで)
山口コレクション中国仏教彫刻・工芸の譲渡を受ける(昭和53年度まで)
昭和 55 年 田万コレクションの寄贈を受ける
昭和 56 年 カザールコレクション漆工の譲渡を受ける(昭和59年度まで)
昭和 62 年 天王寺公園が有料化される
南館の美術団体展展覧会場の一部がアベノベルタに移転し、それに伴い
本館南館の一部が常設展示展会場となる
平成 4 年 美術館正面 地下に展覧会室を新設し、南館とアベノベルタの美術団体展
展覧会場を統合移転する。南館は常設展示会場となる
平成 9 年 南館2階陳列室を改修する(平成10年度まで)
平成 11 年 南館1階陳列室の一部を改修する

2006/05/30(火) ああ、火事だ、近くのラーメン屋から
深夜、バリバリ・・ジ・・ジ・・という変な音がすると思うと、女性の「火事だぁ・・」と言う声で眼か覚める。戸を開いて見ると暗闇から火の手が上がり、電線であろう青い炎が上がり、直ぐに二階部分に火の手がまわる。とにかく消防署に電話した。人々が起き出してきた。すぐサイレンの音が聞こえ、消防車がやってきて瞬く間消えていったが大変な見物人である。
 俺は自分自身の昨年の火災を想起した。眼の前が「俺の家もあのように、もっと酷い燃え方をしたのだ」とまた思い出し目の前がくらくなっていった。
 日本では年間七千件ぐらいの火事がおこるらしい。元いんは「タバコの不始末」らしいが俺はもっと他にあるのではないか、と思う。俺の家の場合もそのように片付けられたが、外に置いていた布団に通行人がタバコをポイ捨てしたのではないか、といまでも思っている。時間は三時頃であった。
 最近はパソコンから火が出るケースも多いらしく、皆さん、気をつけよう。
 胸は燃やしても家は燃やすな、

2006/05/29(月) 大阪市立美術研究所・雑感 F
 私事で恐縮だが、儀間比呂志氏の影響で大阪市立美術研究所に入るのである。その頃の所長は新世紀会の天王寺卓二氏で氏の祖先は安土桃山時代の堺の豪商。号は昨夢斎。信長・秀吉の三宗匠の一人。本願寺門徒として堺に入り、茶の湯を武野紹鴎に学び、その女婿となった人であった。故によくお茶を嗜んでおられたのを記憶している。教授陣では行動美術の小林武夫氏、氏は箕面で同郷のよしみでよく面倒を見てくださり感謝している。日展の松田忠氏、東光会の家永喜三郎氏など多数おられたが、後は申し訳ないが忘却した。
 生徒の先輩には大阪芸大教授になる司久、モンマルトルの似顔絵の親玉になる小林善幸、イラスト界の大御所・山名文雄など多士済々のメンバーが揃っていた。
 まず入ると前期といって胸像の石膏デッサン、そして全体像の石膏デッサン。それから人体デッサンに至り、絵画部、彫塑部に進むのである。面白いの何年たっても駄目なものは石膏デッサンで前へ進めない事であった。何十年も通いつめて石膏デッサンから上へ進級できないものが大勢いたことである。

2006/05/28(日) 沖縄の重文・大工哲弘氏に会うとは・・
本日大工哲弘氏に会う。重要文化財の人なのにさりげなくお話された。中に私の美大の先輩・儀間比呂志「行動美術」それを紹介した沖縄タイムズの新川明氏などの話しに華が咲く。「当時の私は、安穏とした芸術家の行動に疑問を感じていた。そこへ儀間氏の作品に触れ、彼こそ沖縄のシケイロスやオロスコである」云々で大工氏それに影響を受けた人であった。
                              ★大工哲弘氏プロフィール

1948年石垣市生まれ。八重山民謡の大御所、山里勇吉に師事。八重山民謡の多彩な島唄を唄うと同時に、最近では、伊藤多喜尾雄や梅津和時、ソウルフラワーユニオンなど、ジャズやロックの多くのミュージシャンと共演し、日本だけでなくヨーロッパやアフリカ公演も敢行。その思い切った、スタイルは民謡パンクと評する人もいる。 特に岡本太郎氏が絶賛したし、いまは日本より海外で好評を得ておられます。

http://daiku-tetsuhiro.com/index.html
似顔絵を頼まれたのは光栄です・・・

2006/05/27(土) 大阪市立美術研究所・雑感 E
人間、若い頃の夢は奔放であり、その奔放さ故に自分自身、如何していいか解らぬ時が俺の高校生時代だった。毎日、破裂しそうな想いを車を無茶苦茶走らせる事で発散していたのだ。そんな折、難波へ遊びに行って似顔絵を描いて貰ったのが大阪美術研究生だった儀間比呂志である。確か二百円だったと思うが、氏は俺の顔を喰いつく様に見ては一枚描いては破り、二枚描いては捨て、何時終わるか解らぬ描き方に俺も苛立ってきた。「あんさん、もういいわ、金払うから・・・」と言うと「君は人生を急ぎすぎており、自分を粗末にしているのではないか・・・」とまた画用紙と格闘するのだ。俺はこの一言がすごく胸に響き、それからロシアの似顔絵描きニコライ・ガノー等の話になったのは、こちら倉敷・大原美術館の楚である児島虎次郎と日本孤児院の創始者・石井十次の娘との結婚話のときニコライ・ガノーが出てくるので記憶にあったからである。
 その似顔絵は漫画的ではなく、鋭い線で俺の不安、憂い、あるいは愚かさ、野卑等、内面を表出し、己とは何者なのかを問うているようであった。似顔絵といったら、似ていることが全てであると思っていたが、そうではなかった。その絵は自分の気持ちや内面までも描いてあるようでズッシリと胸にきた。そして自分の思っていた顔と違う絵に向き会ったのは新鮮な驚きでもあった。その絵から将来に向けての道を必死で見つけようとしている自分にも気付いた。何回見ても見飽きなかった。以後その似顔絵は俺の宝物になり、結局、儀間比呂志氏に感化され、高校を中退、大阪美術研究所の門を叩くのである。

2006/05/26(金) 大阪市立美術研究所・雑感 D
 戦後の混乱期は普通の人も大変だったのに、況や絵描きなどどのように暮らしたか想像以上の辛酸を甞めている。赤松凛作も 1939年、大阪市立美術館で還暦記念回顧展開催して以後、 洋画研究所閉鎖。戦災で多くの作品を失い、路頭に迷っていたのである。ここに我々似顔絵描きから「春さん」といわれる画家の痕跡を辿ってみよう・・・・
 山中春雄は、1919年8月大阪市浪速区元町に生れた。料理屋の生まれとされるが、生い立ちについてはほとんど語らなかったと言われ、詳しい記録は残っていない。難波商工学校商業本科を中退後、1935年から大阪中之島洋画研究所に学び、1937年に二科展に<少女>を出品、10代にして画家として順調なスタートを切るが、1940年に現役兵として満州へ渡る。1943年に除隊となるが、満州で従軍看護婦長をしていた夫人と現地で結婚し、1945年6月までハルピンに居住、済州島で終戦を迎えた直後、ハルピンで生別した妻子と前後して帰国した。帰国の年を1946年とする資料も存在するが、本稿では、東京文化財研究所保管の日本美術年鑑作成用資料に拠っている。帰国後は大阪の闇市で糊口を凌ぎながら、中之島美術研究所の先輩であった小林武夫(筆者の師、行動美術協会第1回展入選、以後没年まで同会所属。)等から油彩道具一式をもらって再び描き始め、1947年の第2回行動展に<子供と向日葵>出品、会友となる。絵を描くことと生きることの意と介し、妻や長女を数多く描き、当時の山中の人物描法を知る貴重な資料となっている。描くことのゆとりこそまだ見られないが、暗い色調の中に、あどけない表情を丁寧に捉えた、素直な愛情に溢れた作品である。一転、姉を頼って横浜に移住したのは1948年とされ、妻と長女、長男を喰わすため、絹布に写真から似顔を描く、当時「絹こすり」と呼ばれた仕事で進駐軍を相手に生計を立てながら、行動展への出品を継続し、行動会の重鎮になるのである。しかし、私の師・小林氏も似顔絵仲間も「春ちゃん」の通称でとおっている・・・

2006/05/25(木) 大阪市立美術研究所・雑感 C
 さて「今治水」でお馴染みの「丹平ハウス」が戦災で焼失。そこで「赤松美術研究所」は大阪市立美術館に移動するのである。もともとここは住友家が神戸住吉に本邸を移し、昭和元年に慶沢園の敷地12,940坪(茶臼山邸)を大阪市へ寄贈した後に市立美術館が完成した所であった。
 この庭園の設計・施工を担当したのは当時の高名な庭師であった「植治」こと小川治兵衛である。治兵衛は山県有朋の無隣庵を手掛けて以来、京都を中心に活躍し、日本の近代造園に大きな足跡を残した造園家で、彼の手になる庭園は国や京都市の名勝などに多く指定されている。 慶沢園は、大名庭園をモデルとした林泉式回遊庭園である。中島を浮かべた大池を中心に、三方に築山を築き変化に富んだ地形をつくり出している。周辺には園路や飛石、橋をめぐらせ、茶室や四阿・あずまや・が配されている見事な庭園を寄贈したのである。
 私事になるが大道で長年、似顔絵を描いていると「人の身体に潜む利己と厚意の比率、あるいは理性と感傷の比率」を計算して人を見る癖になっているが、この住友にしろ、森平兵衛にしろ、感嘆の声を上げざるを得ないのだ。
 勿論、赤松麟作も感動したであろうし、現に関西洋画壇のため心骨を捧げている。
 私は武田信玄の言った「城は人」であり、いくら立派な作品、あるいは教育材料、医療器具があろうが、それを扱う人間が駄目ならその本体は何等役に立たないと思っている人間だ。

 私が入所した折の美術研究所は素晴らしい教授陣であったと感謝している。

2006/05/24(水) 大阪市立美術研究所・雑感 B
 佐伯祐三の師が赤松麟作である。赤松麟作氏の履歴を簡単に書くと・・・
1878年、岡山県津山市生まれ。1897年、東京美術学校西洋画科選科に入学。黒田清輝に師事し、在学中から黒田が主宰する白馬会に出品。1901年、第6回白馬会展で「夜汽車」が白馬会賞を受賞。1907年、大阪梅田に赤松洋画塾を開設する。美術教育にも尽力し、その功績で1948年、大阪府文芸賞受賞。1953年、逝去。人物の表現に定評があったが、この作品も豊富な裸婦を堅実な筆致で描いている。
・・・・・ということになるがとてもとても交友録になると、ここに描ききれるものではない。
 ここ大原美術館の楚を築いた児島虎次郎始め、青木繁、熊谷守一、山下新太郎、和田三造などとも交友あるし、大阪に来てから
大阪朝日新聞の絵画担当として赴任してきた山内愚僊とともに大阪洋画壇の基礎を形成したのも彼である。
  その後、大正十二年(1923)に大阪市美術協会が発足し、翌十三年四月に、信濃橋西北角の日清生命ビル四階に信濃橋洋画研究所が開設される。そのおり二科会会員に推挙され、洋画壇に新風を送り込んでいた小出楢重を 中心に、黒田重太郎・国枝金三 ・鍋井克之の四人が船場のボンの根津清太郎をパトロンに設立したのも赤松麟作の運動の賜物である。
 ちなみに細川政権の文相が赤松麟作の娘で「男女均等法」を成立させたのも耳新しい。
 画像は読書する娘を描いたものである。

2006/05/23(火) 大阪市立美術研究所・雑感 A
大阪美術研究所創設由来を語るには、どうしても佐伯祐三のことを紹介しなければならない・・・・

大阪中津の寺に生まれる。北野中学在学中から赤松麟作の画塾でデッサンを学ぶ。1917(大正6)年上京、川端画学校に学び、翌年東京美術学校に入学。間もなく父・弟の死や兄の許嫁の自殺などが重なり、生と死の不安を自我の間題として生きることがならわいとなる。1921(大正10)年、池田米子と結婚、下落合にアトリエを構えた。1923(大正12)年、東京美術学校卒。美校の同級生と「薔薇門社」を結成し、展覧会を開く。大震災後の同年11月、妻子および友人と渡仏。翌年パリに着き、グランド・ショミエール自由科に通う。初めセザンヌに関心を抱き、多くの実作に触れた。この年の夏、里見勝蔵とともにその師ヴラマンクをオーヴェルに訪ね批評を乞うが,「このアカデミスム!」の怒声を浴びる。以来オワーズ河周辺にヴラマンク好みのモティーフを探索し、作風は急速に激烈なフォーヴ調へと変わった。1925(大正14)年1月にはクラマールから市内のリュ・デュ・シャトーに転居。年の半ばにユトリロを見て感動し、パリの街景を描き続ける。同年10月、米子とともにサロン・ドートンヌに入選。翌年3月帰朝した。同年5月、里見や前田寛治らと一九三○年協会を結成。同年9月の第23回二科展に滞欧作18点を出品し、二科賞を得る。だが日本の風景によっては自己の造形理念を実現できぬと焦慮し、1927(昭和2)年夏、京城、モスクワを経て再びパリに行く。すさまじい制作力をもって、広告の文字や線を乱舞させる狂燥な画風を試みた後、翌年には≪モラン風景≫を連作、フォーヴの技法によって堅固な構築性を追求したが、肺患に加えて神経衰弱も高じ、同年6月セーヌ県立エブラール精神病院に入院。8月16日、同病院で30歳の生涯を終えた。

おお、俺もアル中で入院しているぞ・・・


2006/05/22(月) 大阪市立美術研究所・雑感
大阪市立美術研究所・雑感


東京が銀座なら大阪は心斎橋である。
大正15年(1925)に大阪市の人口は東京市を越えて世界第六位の都市となって名実共にメトロポリス=“大大阪”になったわけである。ちょうど今年、昭和十年代くらいまで栄えた大阪のモダニズム美術の展示があると言うので行ってみた。 
 会場は元の出光美術館跡で心斎橋の真ん前であり、全体のインテリが、なんだか世俗的な旦那の道楽・商売って感じである。   まずモダニズムの中心だったデパート大丸とそごうの美麗なアールデコ建築・内装はいまも健在でなかなかすごいものだったね。
 正面に屏風に仕立てた漆螺鈿装飾扉が訪れた人を会場内に誘なうかのように展示されている。漆の黒に螺鈿の細工、今も真珠色に光が放たれ誰もがしばし目を奪われる。有名画家によって描かれた艶やかな着物姿の女性のポスター達が流し目でこちらを見る。赤松麟作の「裸婦」の光と陰影の捉え方の巧みにその場に佇み、中村貞以の「失題」の豊満さに心を躍らせる。今も昔も女性が主題。
その頃の浪速男は「船場で店を構え、ミナミの盛り場で遊び、帝塚山・北畠の邸宅に住み、白砂青松の浜寺(堺市)に別荘を持つ」のが成功者の一つの姿であった訳だが・・・
 大阪・心斎橋の下には長堀川が流れ材木の原木が集積し、金と人の集まる所に文化の華が咲くのも自然であろう。
 そんな一人に、今でもお馴染み「歯痛薬「今治水」を発売して全国的に有名となった森平兵衛という人が、昭和5年に丹平ハウスというビルを建て、大阪の新しい顔となるのである。
 アメリカのドラッグストアを参考に1階店舗内にソーダ・ファウンテンを開設すると共に写真用品売場も設置、階上には貸し事務所・写真スタジオなどのテナントが入居した。「丹平写真倶楽部」は写真倶楽部「浪華写真倶楽部」で活躍していた上田備山、安井仲治が中心となって丹平ハウス2階を活動の場に会員11人を集めて結成したアマチュア写真倶楽部。「浪華写真倶楽部」から分かれて結成され、棚橋紫水・本庄光郎・吉川源次郎(丹平ハウス支配人)や手塚粲(ゆたか、手塚治の父)が活躍した写真倶楽部は赤松洋画研究所(明治40年に洋画家・赤松麟作を中心に梅田に誕生した研究所)をも活動拠点とし、「浪華写真倶楽部」「芦屋カメラクラブ」と共に関西モダニズムの中心的な写真倶楽部となるわけだ。

 故に森氏の「丹平ハウス」がなければ佐伯祐三も手塚治虫も後で話す、日本を揺り動かした芸術家が誕生しなかったと言っても過言ではない。
                              続く


2006/05/21(日) 阿智神社まつり・・・・
 小さな子供が素隠居の面を被り「絵が上手くなるように・・」と団扇で頭を撫でられたのには感激したが・・・・

 相変わらず、多くのカメラマンが私のご来所お待ちかねで、三脚を並べておられる。

 まあ、それは良いとして、一人のおばはんが「いつもの通りやってや・・」というのだ。「いつもの奴でなんですか?」と言うと「もっと激しく踊って描くことや・・」「最初からそんな出来ませんよ・・」と言うと、横にいる女を指さして「この方、貴方を見るため、東京からきているのよ・・」

 これにはマイッタ。団魂の世代は怖いよ・・・
こういう「己さえ良し」とする団魂の世代700万人がリタイアするらしい・・・・

 俺は早く、お迎えがほしいよ・・・・

2006/05/20(土) ああ、鮮やかなるホームレスの家よ・・・
 ある方より画像頂いた。

 なんて素敵な家だろう・・・
俺はただ感嘆の声を発するのみである。出来えれば丹下健三氏か柿歯氏に見せたいね。
 これなら地震が来ても大丈夫なように構図が八角形になっているし、悪餓鬼どもが攻めてきても、覗き穴があるから或る程度対処出来るであろう・・・
 これを作った人はどんなホームレスだろう。建築家、大工、冒険家、あるいは戦争経験者であろうか。
 俺は楽しくなったよ。一度泊めてもらいたいな・・・

2006/05/19(金) 大阪市立美術研究所物語
大阪市立美術研究所の卒業生が集まって展覧会するので「お前も出品しろ」と言って来た・・・・
 大阪美術研究所は在野でそんな展覧会作っても真の芸術家などそだたないと思っているのでお断りした。いずれこの事は「大阪美術研究所物語」で書くつもりでいる。

 ここは赤松 麟作が創立した。彼は岡山県津山に生まれる。明治16年(1883)一家で大阪の中之島に移る。明治29年(1896)、東京美術学校で黒田清輝に師事。明治35年(1902)、「夜汽車」が白馬賞を受賞。明治37年(1904)大阪朝日新聞社(北区中之島3丁目)に入社。明治43年(1910)、梅田に洋画塾(現:JR大阪駅の北側付近。大正11年(1922)頃、大阪駅の拡張で立ち退く)を開く。大正15年(1926)心斎橋筋の丹平ハウスに赤松洋画研究所を設立する。戦後、大阪市立美術研究所で教鞭をとった。後進を育てるなど大阪洋画の台頭に果たした役割は大きい。門下生に佐伯祐三らがいる。昭和28年(1953)天王寺区で死去。

 私は佐伯祐三から数えて33人目の卒業生であり、愛着のあるところだから、一冊に纏めるつもりだ、とも言っておいたよ。

画像は赤松麟作の代表作「夜汽車」

 

2006/05/18(木) オイ、まだ、続けるのか・・・?
俺も好きだなあ・・・

ところでこの学生だけでなく、教師、医師、公務員などの痴漢化が異常に増えている事である。

そこで俺はおもうのだ・・・・

 それは、よく「性と死」は深い関連性を持つという。つまり性の氾濫は社会が死に瀕している時に興り得るのだ。
 冬を前にして、樹木がその種子を完成するように、枯れる直前に、笹が実をつけるように・・・・

 性とは、人類的な規模での、死との闘いにほかならなかったのではないか。だから、特定の対象を持たない性の表現は、売春婦より意味深長である。何故なら死に瀕している固体の、人間的回復は性だけに限ってしまうからである。
 その証拠にストレスのはけ口を知らない人間は、確実に痴漢化する。もし、市民の中で、痴漢の数が増大しているとすれば、その都市、もしくは国家全体が、内部に大量の死を抱え込んでいる証拠になるだろう。
 人が人との「絆」をはっきり確立した時、匿名性から開放された時、性も初めて対象を持った「愛」に変わり、人類の安定した再生産保障された社会になるであろう。

 勿論、俺はこれらの行為を黙殺している。ただ、黙殺出来ないのは画家として、作家としての私の生き方である。

2006/05/17(水) 学生もストレス社会なんだなぁ・・・・あ
私の家から見える公園に男女の学生が来て、楽しく話し合っておりました。心温まる風景だな、と思っていると女の方がタバコを吸出し、そして男の学生の一物を握り始めるではありませんか。そしてブランコの上で・・・ああ、学生も非常なストレスに苛まれているのかな・・・

 それにしても彼・彼女らが可愛そうになる。
今の都会にはこういう愛を育む、スキン・シップする場所が全て営利企業に握られているんだから・・・

 彼・彼女らは携帯か、コンビニか、テレビ・ゲームか、シュミレーションの世界しか出来ない。
 統治者は本当のスキン・シップできる場所を与えてやれよ。

2006/05/16(火) 若き特攻隊員はどういう気持ちで・・・
林憲正という25歳の特攻隊員の遺書を紹介する

 私は郷土を守るために死ぬことができるであろう。
 私にとって郷土は、愛すべき土地、愛すべき人であるからである
私は故郷を後にして、故郷を今や大きく眺めることができる
 私は日本を近い将来大きく眺める立場となるであろう
私は日本を離れるのであるから、その時こそ私は日本を本当の祖国として郷土として意識し、その清らかさ気高さ尊さ美しさを護るために死ぬることができるであろう。 │

 まだ人を愛した事がない者は、「愛する者のために死ねる」という感覚が分からないだろうし、「自分のため以外に死んでたまるか」と「エゴだけの個」にとどまっていているもの無理はない。しかし、自分のためにを超えた時、愛する者のためにの向こうに国のためにが立ち上がってくる。特攻隊は、天皇を本気で神と思って信仰していたわけではない。民間人を殺すなんてできるわけがない。テロではないのだ。特攻隊は、宗教で死ぬ陶酔感もない彼らには、情の論理しかない。「愛する者たちが住むクニを守るために自死するだけだ。これは死ぬのに覚悟がいる自分を克服する段階がいる。死を前にした特攻隊の川柳である。

慌て者 小便したいままで行き
諸共と、思えばいとしのこの虱

 彼らは自分を客観視して、笑うほどの精神のバランスを保っている。見事なユーモアであるが悲しすぎる笑いだ。

 政治家が、官僚が、マスコミが、日本の大人が、何の覚悟もせずに平和に実は無難に今をやりすごそうとばかりしている。無難と金儲けためならばとプライドなんかいらねえと開き直っている。

 かつては、死を賭けて日本の誇りを守った若者があんなにいたのに。学鷲の特攻隊員である西田中尉は「そう簡単に勝てるとは思っていません。しかし、負けたとしてもその後はどうなるでしょう。お分かりでしょう。われわれの生命は講和条件にもその後の日本の運命にもつながっていますよ。そう民族の誇りに。」と言っている。

彼らが死を賭けて伝えたかったものを今の日本はちゃんと受け止めているだろうか。命に対する考え方は、「命そのものが宝」、「生きることそれ自体が目的」という人々は多い。長生きしたくてしたくて・・・。だらだら生きていてもいいからとにかくいっぱい生きたい。いろんなものを食って、面白おかしそうなことを味わい続けたい。今の日本をそう思う人だらけのような気がする。それはそれで否定はしない。しかし、生き長らえることだけが人生の目的ではないと思っている人は必ずいる。命は手段に過ぎない。この命を使って何をなすかだ。その時代の状況があるにせよ、後者の生き方をした人間に敬意を表したい。

私事だが、私の叔父さんが大阪帝国大学より、学徒出陣で今日が命日でこういうことを書いた。期せずしてこの日が沖縄・那覇陥落であの有名な五歳の「白旗を持った少女」が有名になり、儀間比呂志氏が版画に堀り、後、映画化されてますなぁ・・・

2006/05/15(月) 力あるものは力を、技あるものは技を・・
「生きているか、死んでいるか」これはハムレットの有名な言葉である。しかし、ドイツの原語では「存在するか、しないか」とも訳されぬこともない。

 過日、アルツハイマーの「老人ホーム」と大阪城のホームレスを慰問して上記のことを想起した。

 ホームレスの人やアルツハイマーの老人、ニートたちは社会から存在しないで、ただ、生きているだけのことになるのだろうか。いや、そうではない。

 普遍すれば一般社会人も「会社」の効率主義に磨り潰され、「己の存在感」も希薄であろうし、己の生きている、というより「存在感」を強く意識する事は希薄である。

 とにかくホームレスに「自立する力」を与えるのが一番だと思い、私の描いた絵を置いてきた。彼らに売ってもらうのである。

 「老人ホーム」には「白黒のスターの似顔絵」をおいてきて、ここに塗り絵をして貰うのである。絵の道具が少なく取り合いになったが、少しはヒポクラテス顔貌は薄らいでいたね。

 金あるものは金を、力あるものは力を、技あるものは技いうわけで私が描いた老人の似顔絵で・・・・す。

貴方も必ず、老人になりますよ・・・・・

2006/05/14(日) 子供達の居場所は・・・・?
逃げたい…
隠れたい…
僕を閉じ込める
この壁をぶち壊したい
手を差し伸ばし
炎の様な輝きに触れてみたいんだ
そういう場所を僕は求めている…

上の詩は誰が書いたと思います・・・・小学生の子供です。
彼等には時間がない、空間がない、人が居ても人間が居ない、と言います。
 学校が終わることを「放課後」と呼ぶのに、《解き放たれていないではないか》
 故に居場所は塾か、ゲームセンターか、コンビニの前か、という風になってしまうわけだから、上のような叫びになるのでしょうか?

 こういう子供達が大きくなった日本はどうなりますでしょうか。皆さんも考えてくれませんか・・・

 ホームレス博士のアラカンさんは「学校の校庭をもっと自然に帰す事、子供達に隠れる隙間を与える事、見張るのではなく、見守る事だよ」「そうすれば子供達の眼はイキイキするよ」とおっしゃいますが私に良くわかりませんので・・・・

2006/05/13(土) 生きる、とは黒澤明氏の映画より。
五月病で今日もゴロゴロしていたが、手伝いの女に愚痴られ、美観地区へ。
 いるいる、修学旅行生の餓鬼どもが・・・高知からきた小学生の連中は面白く、サッカーの選手の似顔絵など良く買ってくれるので「君達は大きくなったらサッカーの選手か」と言うと反対に「おっさんは大きくなったら・・・」には絶句した。「ホトケだな」と言っておいた。帰り図書館で黒澤明「生きる」のビデオを見る。
 定年近い公務員の課長である渡辺は、毎日書類にはんこを押しているだけの単調な、つまらない仕事を30年間も続けていた。
そんなある日、自分が胃ガンであることを知り本当に「生きる」ことに気づく。。というお話です。

しかし、この渡辺という男はある意味、今まで死んだも同然の単調な毎日を暮らしていた男です。そのため死の悲しみより、死を前にして「このままでは死ねない!」という気持ちが強かったのだろうと思います。そして、渡辺はたらい回しにされていた公園建設の事業にまさに命を懸けて取り組み始め、渡辺は本当に人生を生き始めます。彼にとって、死を受容するには何かを成し遂げないとできなかったのでしょう。30年間、机に縛られて単調な人生、息子だけの人生では納得がいかなかったのでしょうね。いや、もしかしたらこの公園建設をやろうと思った時点で死を受け入れたのかもしれません。
最後に公園で「恋せよ乙女」の歌を歌って死んでいったのは、成し遂げた充実感と生きることの
すばらしさを感じた満足感でいっぱいだったのでしょう。

本当に生きるとは、ただ食って寝るだけでなく、自己実現の過程であるのです。
自己実現という言葉はユングが最初に使った言葉ですが、要は自分の可能性を実現すること。
常に成長して何かを成し遂げるのが、人間が「生きる」ということなのでしょう。

しかし、「死を覚悟するからこそ本当に生きることができる」とは、人生の皮肉ですね。
五月病は治っていました。

2006/05/12(金) 「生きる」とは・・・・
この絵はエジプトのものだが、

チベットでも神が天上で天秤を持っておられると言う迷信があるらしい。その天秤の両端の受け皿には幸運と不運が乗るようになっていて、不運が積み重なって重くなれば、それとバランスを保つように反対の受け皿に幸運が乗るというのである。
 もちろんその逆もあるが、これはヒョッとすると迷信というものではなく、人の行動の原理をつぶさに観察した上での一つのテーゼではないだろうか。

 あまり幸せを求めすぎないことが、幸せなのかな・・

5月絵日記の続き


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