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2006/05/25(木)
大阪市立美術研究所・雑感 C
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さて「今治水」でお馴染みの「丹平ハウス」が戦災で焼失。そこで「赤松美術研究所」は大阪市立美術館に移動するのである。もともとここは住友家が神戸住吉に本邸を移し、昭和元年に慶沢園の敷地12,940坪(茶臼山邸)を大阪市へ寄贈した後に市立美術館が完成した所であった。 この庭園の設計・施工を担当したのは当時の高名な庭師であった「植治」こと小川治兵衛である。治兵衛は山県有朋の無隣庵を手掛けて以来、京都を中心に活躍し、日本の近代造園に大きな足跡を残した造園家で、彼の手になる庭園は国や京都市の名勝などに多く指定されている。 慶沢園は、大名庭園をモデルとした林泉式回遊庭園である。中島を浮かべた大池を中心に、三方に築山を築き変化に富んだ地形をつくり出している。周辺には園路や飛石、橋をめぐらせ、茶室や四阿・あずまや・が配されている見事な庭園を寄贈したのである。 私事になるが大道で長年、似顔絵を描いていると「人の身体に潜む利己と厚意の比率、あるいは理性と感傷の比率」を計算して人を見る癖になっているが、この住友にしろ、森平兵衛にしろ、感嘆の声を上げざるを得ないのだ。 勿論、赤松麟作も感動したであろうし、現に関西洋画壇のため心骨を捧げている。 私は武田信玄の言った「城は人」であり、いくら立派な作品、あるいは教育材料、医療器具があろうが、それを扱う人間が駄目ならその本体は何等役に立たないと思っている人間だ。
私が入所した折の美術研究所は素晴らしい教授陣であったと感謝している。
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