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2006/12/09(土)
人は私のことを「偽善者」という也。
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また、「火事の焼け太り」とも噂しているらしい。とんでもない。火事の保険金は弁償で全て返し、まだ、迷惑かけているのである。 「偽善者」とは「なるほど」と思っている。 そもそも偽善(ぎぜん)とは、善であると偽る事をいい、これ行なう者は偽善者とよばれる。外面的には善い行為に見えても、それが本心や良心からではなく、虚栄心や利己心などから行われる事を指している。
まず、自分の事を「偽善者」だと思う人は、外面的には自分を善と見せかけていても、実は内面的に悪であると知っている。したがって「偽善」とは、自己の悪の自覚を含む、優れて主観的な事柄であり、自己の善性に対する懐疑から深い思索を生み出す事もあるのである。
一方、自己ではなく他者を「偽善者」と非難する人もいる。外面的には善と見せかけているが、その他者の内面の悪を見抜いてしまっていると言うのである。しかし、他者の内面というのは外から簡単に分かるものではないから、その他者の中に悪を推定するだけで、善行に対して猜疑心を向けているに過ぎない事も多い。
ところが、こうした「きれいごと」を非難する声の中には、実質的な悪への関心が見られない事も稀ではない。「世間」から突出した事への嫉妬から、自分が直接には被らない「迷惑」を言い立てる事などである。人に先駆けて行う事を臆するあまり、結局は何も出来ないでいる者たちが、目立った行いをする者を「偽善者」だと嘲笑する(似非ニヒリズム)。ボランティア活動などは常にこうした困難に直面するが、「偽善」への深い思索に裏打ちされ、常に自分の行為の及ぼす影響に留意してなされる継続的な行為は、たんなる主観的な善悪の次元を超越したものになりうるだろう。
継続した「偽善者」は真の善人ではないか?
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