美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2006年12月
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2006/12/20(水) 倉敷出の画家・満谷国四郎の写真
1913(大正2)年2月11日にパリで撮影された集合写真はたいへんに貴重な写真である。母国の「紀元節」を祝うパリ在住の日本人美術家の集まりは、第一次世界大戦前の、19世紀の残照をたたえるヨーロッパを体験した日本人の群像でもある。場所は、パリ左岸のポール・ロワイヤルの近く、リュクサンブール公園とパリ天文台の間にある噴水の前であり、街路樹は凍てつき、雪も舞っているのか、2月の厳しい冷え込みが伝わってくる。撮影者は誰なのかとの興味も残るが、まずここに写った17人を見てみよう。
前列の左から、菅原精造(1884-1937、1904以降在仏)、徳永仁臣(1871-1936、在仏1911-1914)、山本鼎(1882-1946、在1912-1916)、小杉未醒(1881-1964、在913-1914)、川島理一郎(在仏1911-1915)。後列左から、柚木久太(1882-1970、在1911-1915)、和田三造(1883-1967、在1909-1914)、藤川勇造(1883-1935、在1908-1916)、澤部清五郎(在1911-1913)、桑重儀一(1883-1943、在1912-1915)、小林万吾(1870-1947、在1911-1914)、満谷国四郎(1874-1936、在1911-1914)、小柴錦侍(1889-1961、在1911-1920)、水谷鉄也(1876-1943、在1910-1914)、梅原龍三郎(1888-1986、在1908-1913)、内藤丈吉(履歴不詳)、長谷川昇(1886-1973、在1911-1915)であろう。
 関西美術院の出身者や東京美術学校関係者、アメリカ経由でパリに来た川島と桑重など出身はばらばらだが、アカデミー・ジュリアンなどの画塾やグレーなど写生地での顔なじみだろう。梅原は《黄金の首飾り》(東京国立近代美術館蔵)を描き上げて母国に戻る直前であり、安井曾太郎(1888-1955、在1907-1914)もパリにいて、このメンバーとも親しかったはずだが、胸部疾患が悪化していた時期にあたるためか、ここには写っていない。彼らに共通するのは、年長で二回目の留学中の満谷と東京美術学校・助教授の小林、水谷を除けば大半が1880年代の生まれで、明治末年に留学し、大半が1914年前後に帰国したことである。1914年7月に第一次世界大戦が勃発し、大使館の勧告に従い多くの在留邦人がパリを離れる。当初クリスマスまでには終わるとされた戦争は長引き、1918年11月まで続く。この間、日本から欧州への新たな留学は中断し、1920年代からの留学生たちは中川紀元、前田寛治、佐伯祐三ら1890年代生まれが大半となり、就学の場から作品の制作、発表の機会へとフランス留学の意味自体も変質することになる。急増した在留画家のあいだで「派閥」が生まれるのも1920年代以降のことである。
 色々興味尽きない写真である。


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