美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2010/05/12 大阪で昆布屋
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2010/03/08 次回は油絵を・・・・・
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2006/12/31(日) 来年も生きます・・・よろしく。
先ほどこういう添付メールがきました。
 ああ、その、お写真を見て「良かった・・・」と心底思い、こういうときこそ絵描き冥利につき、来年も生きようと思いました。
 皆さん、よろしく。

ちもと・宏様

先日、結婚式のウエルカムボード用に似顔絵をお願いした、広島の00です。

その節は、色々と注文を聞いていただき感謝しております。
両親にも大変喜ばれ、とても良い披露宴になりました。
写真ができましたので、ご報告までに送ります。
どうもありがとうございました。

 来年もよろく・・・・

2006/12/30(土) 40年前の美観地区日記より。 五回
 秋風落莫として行人旅に愁いは西行法師の文句だ。大道ニガオエ師悄然として異郷に悩みそうなのは俺たちの胸中だ。しかし、旅先では所詮幻想にしろ窒息しかかっている所より逃げ得ることが何より救いであった。ある時、東北のローカル線で靴磨き道具とハブラシ一本だけ持って旅している老人に出会い「靴磨きならどこかで定着してやった方が良いのではないか」といったらその老人が答えた。「人間の不幸の原因は記憶の積み重ねから始まるノオ、だからジャ、記憶が積み重さらないうちに他所の土地に行くのジャ・・・」と。その時、俺はその老人の気持ちが痛いほどわかった。ところが奇妙なことにこの老人も含め、ニガオエで全国を回っている連中が避けるのは山梨、滋賀、岡山県なのだ。なるほど山梨は甲州商人、滋賀は近江商人など好ましいイメージでは語られていない。では何故、岡山県を彼等は避けるのか・・・

  過日、テレビで浜家輝雄なる人の司会で岡山県人論なるものをやっていた。面白いと思ったのは、セールスマンが岡山で仕事が出来れば全国何処でも通用するという事。それに「燃えろ岡山」というリフレーンとは正反対に浮つくことを極度に嫌う県民意識故に燃え得ないということであった。たしかに岡山を日本のユダヤと言ったのは大宅壮一だ。備前浪人は油断も隙もないから召し抱かえるなと言ったのは狸オヤジ家康だ。岡山人の学問は自己を掘り下げるより、一家保全か個人の粉飾するためと言ったのは祖父江孝雄氏だ。など色々あるがこれを読む倉敷人はコン畜生と思われるであろう。俺もコン畜生だ。何故なら、だいたい県人論の類いは悪口雑言であり、所詮個に帰し盲人巨象を撫でる意だからである。まして一定の職業もなく、何等社会的見識もない乞食エカキが言ったところでますます気狂いあつかいされるのがオチであろう。況や、どうやら首吊りもせず日々炊飯器のフタも開くというのは誰のおかげか。みな美観地区、倉敷人の好意の成せる賜物ではないか。俺はひたすら小さくなる。人間とか蜘蛛なんて奴は必要に応じていらでも小さくなるものとみえる。 


 時は流れる美観地区。夜が明ける、雪の空。と言えば白楽天のまがいものになるが、初めてここに来たのは俺一人ではない。ここ倉敷出身の小野君と群馬出身の田島君とのトリオ編成であった。小野は後に創画展で大賞をとり、田島は子門マサトの歌う「泳げタイヤキくん」の足の出た鯛のデザインで数億円手にするのだが、この地点では神でさえソッポを向いていたとみえる。桃太郎の鬼ケ島も正直爺さんの雀のお宿も、行きさえすれば的があって外れっこないが、俺たちの旅は暗がりで鉄砲を撃つようなもので全く見当がつかぬ。故に面白いのだ。この息苦しき世の中に、万事が一たす一は二になりきる安直な合理主義時代にだ。まだまだ埋もれたる人材、夢みる人間にも出会うこともある。これから紹介する、たぶん極楽に引越されたと思うが、自称バスク人の子孫という三宅氏。牛のクソを踏んずけたような顔をしなら、星の王子様と名乗るおじさん等登場しドラマがチックに展開するはずだったが残念ながら紙数が尽きた。今回はひとます去ることにするが次回は面白くなる事を予告する。誰かぁ、俺の背中を蹴る奴は・・・・・・・・

2006/12/29(金) 40年前の美観地区日記より。 四回
新幹線が東京ー岡山間が開業したのは昭和四十七年である。
 その前後年には作家・三島由紀夫が
東京市ケ谷の自衛隊内で割腹自殺を遂げ、軽井沢の連合赤軍五人が篭城、機動隊の包囲網の末犯人逮捕というショキングな事件が起こった。と同時に大阪で日本万国博覧会が開催され、田中角栄内閣誕生。
 氏の「日本劣等改造論」がベストセラーになり、巷では青年のロングヘアがあふれ「シラケ」「ガンバラナクチャ」等の流行語を生み出したのもこの時代である。

 ここに於いて国民半ばが思想を失い、節度を忘れ、ただ物質謳歌へ闇雲に走りだし、自ら魂の空白状態へ落ち込んでいくのである。
 我々大道ニガオエ描きの身辺にも、環境整備の美名のもとにコチコチの衛生タイルみたいな街造りが氾濫しだし、息苦しくなってきた。終戦直後よりニガオエを描いていたモダン・アートの石田氏がカッターナイフで喉元を突き憤死。上野の京成百貨店屋上より「オレはゴッホだ、世界中の人々を描いてやる」と叫びながら飛び上がり狂死したO氏。
 まさにその頃の事を思い出して見ると洞窟を覗いているような時でもあった。
 しかし、このあたりの状況を語るには多くの枚数が必要だ。こんな所で道草を喰っていたら日が暮れる。読者諸氏は欠伸をするだろう。今はとにかく倉敷に急ぐ事にする。大道ニガオエ師の大半は都会より脱走という旅に出たのだ。

2006/12/28(木) 40年前の美観地区日記より。 三回
蓬髪ニガオエ上人のいでたちを見た倉敷人は代官所の焼き討ち事件以来の大騒動であった事は前に述べた。
彼等にすれば大原美術館にある絵具を塗りたくった抽象画より余程奇妙に見えたのであろう。なかでもお婆ちゃんが「南無大師、遍照金剛」などと唱えつつ両手を合わす姿にはさすがの俺も恐れいった。
お婆ちゃんはてっきりキ印か、破壊坊主ぐらいに思ったに違いない。禅用語でいえば「森羅万象すべてにして異なるものはこれを疑う」だ。
では何故、人をコケ脅しするようなそんな格好をするのかと詰問する人あるならば、俺は次のように答えるしかない。作家クタバッテシメイ「二葉亭四迷」にのめりこんでいたのである。
二葉亭は常に奇妙な風体をして・・・・・例えば洋服の上に羽織を、ヒョウタンを提げて田舎の茶屋を遊びまわったり、垢じみた綿服の尻からげで立派な料理屋へすまして入ってみたりして、そこにこそ本当の人間観察ができるのだと真剣に考えていた。
また、人間の美しい天真はお化粧してきれいにに包まれている高等社会には決して現れないで、ボロボロの下層社会にかえって真のヒューマニティを見ることが出来るのだと。
だが晩年、それはことごとく失敗であったとして名前のごとくタタバッテしまうのだ。
そのエピゴーネンの日蓮ヒゲも、人を試すつもりが己が心を破壊したと気ずくのは後年のことである。俺のナロードキもクタバッテ空中分解するのであった。
 じゃ、この時代はいつ頃のことであったのか・・

 デッサンは二葉亭四迷です。

2006/12/27(水) 40年前の美観地区日記より。 二回
 分刻みの観光客は小旗とともにバスに押し込まれ、子守の爺さんは寒くなったので家に帰ったのであろう。一人になった俺は石垣にもたれながら考えた。ニガオエで糊口をしのいで27・8年、よくまあ干物にもならず生きてきたもんだと感心した。大阪美術研究所を振り出しに難波、京都、三宮。花の万博で尻をわり、それから上京、銀座、新宿、上野公園。一転フーテンの寅よろしく、北は北海道から南の九州まで祭りを回り回って、落ち着いた先がこの倉敷という按配だ。蓬髪に日蓮ヒゲ、ウス汚れた鼠色のコート、そしてニガオエ道具の入っている頭鉈袋。おまけに煎餅みたいな下駄には、垢のたまった親指が周囲の景色を窺っておる。後で聞くところによると、この姿を見た倉敷界隈の人は倉敷
代官所焼き討ち事件以来の大騒ぎだったそうである。倉敷人が驚けば俺も驚く。よくまあ色んな人間に出喰わし、色んな場所に行ったものだ。出喰わしてないのは生涯連れ添う女と河童ぐらいだろう。行ってないのは宮内丁と刑務所ぐらいだろう。しかし、こういう旅だからこそ人々の喜びや悲しみなど共有出き、人情の機敏に触れられたのではないか。だいたい人間の思想とは大学や図書館、宗教にあるのではなく、本来それはある覚悟をもって生きる人間の生活から、ある毒気をもって沁み出すものと俺は頑なに信じている。それが信じられないのは、旅の空で病気と金に困った経験のない奴だけであ
ろう。それにしても昨今、ニガオエを描いていて感ずるのは笑いを惜しみ、涙を惜しみ、感動でさえ惜しもうと情感の枯れはてた人間、他者に対する共感の欠けた人間がなんて増えたことか。当世はやりの言葉ていえばゾンビのオン・パレードだ。民俗学者の柳田国男氏は昭和30年頃「今のうちに日本人の顔を撮っておかないと、日本人の顔がなくなる」と言ったそうだが、それは超管理抑圧社会の中で人間が生きる根本的な条件ともいえる、そうした充足感すら変態的飽食文化が奪いさろうという時代を予見し言ったのだろうか・・・・
 「先生」刹那の想像は矢車のように回転するがこの一声で現実に戻された。スクランブルの編集長・
山本清隆氏だ。彼曰く「先生に原稿依頼の件あって参上しました」とアル中の日蓮ヒゲに見込みをつけるのだ。確かに俺はこの世に対して言いたいことは山ほどあり、話したい事も腐るほどある。こうなれば三千世界の神や仏に忘れられたように沈没している訳にはいかないと、廃屋に帰り書いているだが四苦八苦だ。これを読まされる読者諸氏は四苦八苦だろう。しかし、それでも尚、読み続けるならば、本当に人間らしく生きる場所は何処にあるのか、生きている手ごたえを求め瞳に涙し、さまよい続ける人々に何らかの示唆を与えるであろう。

 時には暗い梅雨空にポッカリ小さい青空を見出して喜びを感じて貰えるであろう。それでも不満あるならば、不肖チモト宏アルコール漬けになった、この汚い顔首を差しあげようじゃないか。

2006/12/26(火) 40年前の美観地区日記より。
@ 大原美術館石垣前にて

 「人間が厄介なら、人生は面倒だ」といっても死ねないから、今日も臆面もなく馬鹿の一つ覚えのニガオエを描き散らすのだ。その上、酒か入れば舌まで回る。あげくの果てには目を回してひっくり返る。そこへ通りがかった母子連れに「正ちゃん、お勉強をしっかりしなければ、将来ああいう風になるのよ」と顰蹙買うことおびただしい。昔、唐人が「一日生きれば恥も増す」と言ったそうだが俺なんかは一刻一刻が恥の上塗りだ。自慢じゃないが足のつま先から頭の毛の先まで恥の上塗りで出来ている。なんでも聞くところによると、この美観地区では占い婆と引っ掛けカメラ人とアクセサリー、それにこの俺の大道ニガオエ師ほど哀れで滑稽な者は、世に絶えてない言うのが定評だそうだ。さもありなん、タイコ持ちの帽子をかぶり、日蓮宗のお題目みたいなヒゲを生やし、最近油絵の筆など持ったことのないくせに絵の具だらけのapron姿で、生きているのは俺ばかりだと言わぬばかりに石垣前で鎮座している面を見ると浅ましくなるのであろう。ジオゲネスは樽の中、牛若丸は橋の上、俺は石垣背にして大見栄切ったとて、何かの拍子に悲観の虫がおそってくると、もうこんな下等な人間のするような仕事は今日かぎり辞めちまって、チリガミ交換のほうが遥かに潔いのではと深刻に考えるのである。

 ところがだ。頭の上から妙なる鈴の声で「ニガオエ描いて頂けないでしょうか」と聞こえようものなら、今まで目を回してひっくり返っていた日蓮ヒゲはガバッと跳ね起き、しっかりスケッチ・ブックを握りしめているのだから現金なものだ。なんでもパスカル先生によると、妻子を失って悲嘆の底にある男が、いま自分の賭けた馬がスタートしたと言うだけで、この数分間有頂天になってい様を描き、そこから人間の悲しみが一見深そうにに見えてその実、底の浅いものであると辛辣に結論して折る。俺も先程の「深刻」という字など雲散霧消だ。「おお、貴方のの麗しい髪、黒真珠のような瞳゛杏のような唇、貴方は傾城の廃墟から抜けいでた虞美人そっくりだ。イヤ、かのシラノ・ド・ベルジュラックが生涯かけて恋焦がれたロクサーヌ姫を連想した。どんな天才の画家が、珍奇な絵具で純白のキャンバスに絵筆をふるっても、貴方と優劣を争うような美しさは断じてない、天下の美形、古今の傑作・・・・・」相手を褒め称える知っている限りの言葉を羅列し、感動符の連発だ。もう、こうなると分刻みの行動で疲れているのか、訳のわからぬ名画を鑑賞し、心の整理がつきかねているのか、今までまるで宙に迷った亡者みたいな観光客がにわかに元気ずいて拍手する。俺はますます得意になって泡をふく。客はいよいよ喝采する。子守の爺さんまでか゛腰を浮かして、威勢のいいクシャミで応援する。時には百円玉が飛んでくる。日蓮ヒゲの御仁は「人気絶頂、前途絶望」の空気に包まれて即心成仏だ。なかにはこんな哀れな人間もいるのかと、そう思いながら自分の生活を振り返り、安心ほ吐息を漏らしている奴もいるだろう。それはそれで良いのである。人間というものは人に応じた色々な生き方かあって曼荼羅のように全ての人が夫々の役割を持ってピエロを演じているものだ。もうチリガミ交換と言わず、俺は俺に振り当てられた狂人の役を素直に受け入れようと思った。

2006/12/25(月) こういう方もおられるのですね・・・
先日バス旅行で倉敷の大原美術館に出かけた。ここは美観地区と呼ばれていました。珍しい名前と思っていましたら、以前からあるんだということでした。
ところでその大原美術館の前の広場で珍しい方に出会いました。
それはその場で似顔絵を画いてくれるという ちもと・宏さんです。
私にとって大道で似顔絵を描く人はパリかどっかの外国のことと思っていましたので驚きでした。そこで1才の誕生を迎える、孫の似顔絵を描いてもらいたかったので携帯にある写真をみせてお願いしました。携帯の写真では描けないそうです。バスの集合時間も迫り時間もなかったので困っていましたら、後日郵送で写真を送ってくれれば、作成して郵送して下さるとのことで、孫の似顔絵を手に入れることが出来ました。できあがった似顔絵です。
結婚式の引き出物にする人もあるとかで、娘が友人の結婚式での父と娘を画いていただき送ったところ大変喜ばれました。
問い合わせは以下のアドレスをひらいてみて下さい。
http://www.rak1.jp/one/user/gataro8/

2006/12/21(木) 30年後には日本人口八千万人に、
 社人研の推計では、2054年に日本人口八千万人になり、しかも高齢者(65才以上)の人口比率が約40%に達すると言うのである。
 確かに小さな国土に一億三千万人は多すぎる、同じ国土イギリスで六千五百万人の上、いまだに準・植民地を多く持っている。と言って半分が65歳以上じゃ仕方あるまい。
 卑近な例で恐縮だが、私はグッピーという熱帯魚を飼っている。最初はオス・メスの一組だったがそれが子供を生み、また生み、小さい水槽がどうなるかと思っていたところ、ある時、変な小さな貝が発生したのだ。その貝がグッピーの生んだ多数の卵を食べ、貝が増えすぎるとグッピーが食べという具合に小さな水槽の中でさえ、上手く生態系が維持されているのには感動した。
 まあ、人間さまはそう上手くいかず、女性の結婚の延滞や出生の拒否は何かを予見しているようで仕方がない。

 何か上手い解決方はないものだろうか・・・・

2006/12/20(水) 倉敷出の画家・満谷国四郎の写真
1913(大正2)年2月11日にパリで撮影された集合写真はたいへんに貴重な写真である。母国の「紀元節」を祝うパリ在住の日本人美術家の集まりは、第一次世界大戦前の、19世紀の残照をたたえるヨーロッパを体験した日本人の群像でもある。場所は、パリ左岸のポール・ロワイヤルの近く、リュクサンブール公園とパリ天文台の間にある噴水の前であり、街路樹は凍てつき、雪も舞っているのか、2月の厳しい冷え込みが伝わってくる。撮影者は誰なのかとの興味も残るが、まずここに写った17人を見てみよう。
前列の左から、菅原精造(1884-1937、1904以降在仏)、徳永仁臣(1871-1936、在仏1911-1914)、山本鼎(1882-1946、在1912-1916)、小杉未醒(1881-1964、在913-1914)、川島理一郎(在仏1911-1915)。後列左から、柚木久太(1882-1970、在1911-1915)、和田三造(1883-1967、在1909-1914)、藤川勇造(1883-1935、在1908-1916)、澤部清五郎(在1911-1913)、桑重儀一(1883-1943、在1912-1915)、小林万吾(1870-1947、在1911-1914)、満谷国四郎(1874-1936、在1911-1914)、小柴錦侍(1889-1961、在1911-1920)、水谷鉄也(1876-1943、在1910-1914)、梅原龍三郎(1888-1986、在1908-1913)、内藤丈吉(履歴不詳)、長谷川昇(1886-1973、在1911-1915)であろう。
 関西美術院の出身者や東京美術学校関係者、アメリカ経由でパリに来た川島と桑重など出身はばらばらだが、アカデミー・ジュリアンなどの画塾やグレーなど写生地での顔なじみだろう。梅原は《黄金の首飾り》(東京国立近代美術館蔵)を描き上げて母国に戻る直前であり、安井曾太郎(1888-1955、在1907-1914)もパリにいて、このメンバーとも親しかったはずだが、胸部疾患が悪化していた時期にあたるためか、ここには写っていない。彼らに共通するのは、年長で二回目の留学中の満谷と東京美術学校・助教授の小林、水谷を除けば大半が1880年代の生まれで、明治末年に留学し、大半が1914年前後に帰国したことである。1914年7月に第一次世界大戦が勃発し、大使館の勧告に従い多くの在留邦人がパリを離れる。当初クリスマスまでには終わるとされた戦争は長引き、1918年11月まで続く。この間、日本から欧州への新たな留学は中断し、1920年代からの留学生たちは中川紀元、前田寛治、佐伯祐三ら1890年代生まれが大半となり、就学の場から作品の制作、発表の機会へとフランス留学の意味自体も変質することになる。急増した在留画家のあいだで「派閥」が生まれるのも1920年代以降のことである。
 色々興味尽きない写真である。

2006/12/18(月) 島崎和歌子、山崎とおる氏の撮影
本日、寒し。
しかし、絵を描いていると寒さは感じないし、人も意識しないところへ持っていくようにしている。

 ところが背中でザワザワするので振り向くと、何かの撮影でした。島崎和歌子さんと山崎とおるさんしいのですが、私は良く知りませんので、検索で調べました・・・

藤原紀香から「顔が似ている」と言われたらしく、カメラが回っているときに受付で「お名前は?」と聞かれると「紀香です!」と返す。
好きなおやつは豚足。そのおかげか肌年齢は女子高生並であるという。
酒が入ると、所かまわず噛み付いたり、顔を叩いたりするという。北島康介にも噛み付いたことがある。その他にもやしきたかじん、松本人志など、被害者は数え切れない。
島田紳助の話では、下柳剛とお見合いするも、島崎が出来上がったために破談となってしまったらしい。
いわゆる「おばさん風笑い」で有名である。2006年9月30日に放送されたオールスター感謝祭・秋でのローション相撲のコーナーで、自らの笑いのツボにはまったのか、声が嗄れてしまうほどのおばさん風笑いを晒してしまい、視聴者から「ワッコさんが壊れた」とも言われた。なお、この「おばさん風笑い」は、ファンの中でも賛否両論という。

2006/12/17(日) 何々権の氾濫が人を住み難くしている。
近頃めっきり有り難味の無くなったものに写真がある。その理由の一つに誰でも写真を作れるようになったこともその理由の一つかもしれない。

 ここ美観地区でもデジカメを取り捲り、何やらガイドの無意味な話に耳を傾けている。いったい旅とは「己が感じ、触れ、己だけの感動を味わうものであったはずである」日本人はいつまでたっても過保護というか、何かに付いてまわり、記憶しておき、大切な己だけの発見や感動をしょうとする行為が希薄である。

 美観地区にくる大多数の人が面前にカメラを掲げ、モニターを見ながら音もなくシャッターを押すデジカメの氾濫である。故に私はいいターゲットになり、私や私の絵を断りなく撮られていく。して今はやりのプログに掲載さんるのだ。
 しかし、私は何々権とか、権利を行使するのが嫌いなのである。「どうぞ、ご自由に・・・」というところだ。
 常に何々権を行使する奴はどこか、後ろに法律のようなものを匂わせる卑小な奴らはかりだからである。

 加えて最近は携帯電話がカメラ代わりになるということで、あっちでもこっちでも撮りまくっている。これだけ写真が増えると撮られるほうもその都度愛嬌を振りまいてはいられない。
 むかしどこかの原住民が、写真を撮られると魂が抜かれるということで、かなり険悪な雰囲気になったテレビ番組を見たことがあったが、今では空中を無数の画像が飛び交っていると思うと魂どころか命すら抜かれることにもなるのかも知れない。

 この洪水のような画像の氾濫の中で、逆に肖像権がうるさくなったと言うことはいかにも皮肉である。


 かつて映画の黒澤明監督がモノクロ映画にこだわり続けたが、写真というものはカラーよりモノクロのほうがイマジネーションを広げるような気がする。今ではセピア色に変色した若かりし頃の写真帳を広げると、思い出の幅が無限に広がってくるような気がする。

 一方最近のカラー写真というのは間違いなくそのときの事実は見えるが、写真の背景にあるものは見えてこないような気がする。
 勿論、写真などというものはそれだけのもので、それ以上のものを望むことが無理なことかもしれないが、それにしても最近のデジタル化により写真も紙から記憶媒体に変わってきたようであるが、果たして今のシステムがいつまで続くことやら、洪水のような画像の氾濫の中で、写真に思い出などを差し込む余地はとっくになくなっているのかもしれない。

 いわんや「肖像権」云々いうのもおかしい話である。

2006/12/15(金) こういうテレビ出演の依頼いただいた。
はじめまして。
わたくし、TV番組の制作をしております
ブルーマウンテンの藤田と申します。
現在、1月3日(水)のTBS夕方の時間帯放送予定で
番組作りをしております。

番組内容は、漫画家&絵の上手い芸能人が
テーマを設定し、絵で対決していくというものです。
司会は爆笑問題を予定しております。

その番組の中で、似顔絵のアーティストを探しておりまして
HPを拝見しまして連絡させて頂きました。

まだ、取材決定と言うわけではありませんが
一度、お話&連絡先を教えて頂けないでしょうか。

宜しくお願い致します。


(株)ブルーマウンテン
担当:藤田洋一  


 もうテレビは出ないつもりであったが、どうするか、迷ってます・・笑い

2006/12/14(木) 坂本竜馬の言葉・・・
「何でも思い切ってやってみることですよ。どっちに転んだって人間、野辺の石ころ同様骨となって一生を終えるのだから。」「海援隊には役者もおれば乞食もおるが、腹わただけはきれいだぞ」「願わくは公明正大の道理に基き 一大英断を以って天下を更始一新せん」「世に生を得るは事を成すにあり。」「おれは落胆するよりも次の策を考えるほうの人間だ」「竜馬は議論しない。議論などは、よほど重大なときでないかぎりしてはならぬといいきかせている。もし議論に勝ったとせよ、相手の名誉をうばうだけのことである。通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、負けたあと持つのは負けた恨みだけである」「天下の世話は実に大雑把なるものにて、命さえ捨てれば面白きなり」「世の中の人は何とも言わば言え。わが成すことは我のみぞ知る。」

 彼の顔、とくに眼には「魂の重量感」があるよ。今の人間にはこういう「眼」にはあわないね。

2006/12/12(火) 映画「嫌われ松子の一生」


ホームレス画家は雨は大敵だ。なけなしのお金で映画を見るがなかなか、いい映画で考えさせられたよ・・・・

一口でざっくり言えば、53歳で少年らに撲殺され、河川敷で死体となって発見された「松子」(中谷美紀)の人生を振り返る映画。
なんと不幸な人生だろう。
いや、まてよ。はたして松子の人生はほんとうに不幸だったのか。
などといろいろ考えさせられる映画でもある。

冒頭こんなセリフから始まる。
≪夢をみるのは自由だ。でもその夢を叶え、幸福な人生を送れるやつなんてほんの一握りで…≫

そして「松子」は言う。
≪小さい頃は誰でも自分の未来がきらきら輝いてるって思うでしょ。でも大人になると、自分の思い通りになることなんて一つもなくて、辛くて、情けなくて、逆切れして…≫

ある日、松子はヒモ(武田真治)を殺して刑務所入る。
そこでこんな挿入歌が流れる。

What is a Life, What is a Life
ここでは人が起きて、働いて、食べて、眠るだけ
それが人生なら
What is a Life, What is a Life
何もすることのないカベの中で、
人は何を感じ生きていくのだろう?

(What is a Life?)彼女は家族のために
(What is a Life?) 自分のプライドのために
(What is a Life?) 手放せない思い出のため
(What is a Life?) 愛だけのために生きてく
(What is a Life?) 金だけのために生きる

What is a Life, What is a Life
朝、目が覚めればまた同じコトのくり返し…
同じ顔、同じ場所で
What is a Life, What is a Life
何を思いながら人は生きていくのだろう…
あなたは何のために生きてる? 

しかし、最後に・・・・
これは、たとえ世界中のあらゆる人に嫌われ続けたとしても、
たったひとり自分が愛している人から「愛してる」と言われればそれが一発逆転するという発想だ。
たとえこれが不可能(幻想)であったとしても、これに賭けるのが松子の生き方なのだろう。
こうやって松子は生きて死んでいった。
もしこの松子の一生が不幸だとしたら、世の大半の人たちの人生はもっと不幸で色あせた人生に見えてしまう。
そんなふうに感じた。

「いじめらっ子」にいい映画だよ・・・・

2006/12/09(土) 人は私のことを「偽善者」という也。
 また、「火事の焼け太り」とも噂しているらしい。とんでもない。火事の保険金は弁償で全て返し、まだ、迷惑かけているのである。
 「偽善者」とは「なるほど」と思っている。
 そもそも偽善(ぎぜん)とは、善であると偽る事をいい、これ行なう者は偽善者とよばれる。外面的には善い行為に見えても、それが本心や良心からではなく、虚栄心や利己心などから行われる事を指している。

まず、自分の事を「偽善者」だと思う人は、外面的には自分を善と見せかけていても、実は内面的に悪であると知っている。したがって「偽善」とは、自己の悪の自覚を含む、優れて主観的な事柄であり、自己の善性に対する懐疑から深い思索を生み出す事もあるのである。

一方、自己ではなく他者を「偽善者」と非難する人もいる。外面的には善と見せかけているが、その他者の内面の悪を見抜いてしまっていると言うのである。しかし、他者の内面というのは外から簡単に分かるものではないから、その他者の中に悪を推定するだけで、善行に対して猜疑心を向けているに過ぎない事も多い。


 ところが、こうした「きれいごと」を非難する声の中には、実質的な悪への関心が見られない事も稀ではない。「世間」から突出した事への嫉妬から、自分が直接には被らない「迷惑」を言い立てる事などである。人に先駆けて行う事を臆するあまり、結局は何も出来ないでいる者たちが、目立った行いをする者を「偽善者」だと嘲笑する(似非ニヒリズム)。ボランティア活動などは常にこうした困難に直面するが、「偽善」への深い思索に裏打ちされ、常に自分の行為の及ぼす影響に留意してなされる継続的な行為は、たんなる主観的な善悪の次元を超越したものになりうるだろう。

 継続した「偽善者」は真の善人ではないか?

2006/12/08(金) 一転、未婚で死んだ女性の供養画・・
供養画は東北に多い。
特に柳田國男の「遠野物語」で有名な遠野の寺には多いのには驚いている。
 大抵、亡くなった人があの世で苦労や淋しい思いをしないように子供なら人形、下の絵のように未婚の女性なら子供を書き加えたり、米、肴などの食料の他にお金、あるいは派手な着物など描き加えてある。
 
 その供養絵額の製作には何人かの絵師が関わっていた。その中でも外川仕候という絵師の作品が頭抜けて多い。遠野の住職の話によると仕候は元々武士だったが明治になってから絵師として供養絵額を描き始めたそうである。


遠野にある供養絵額の3分の1はこの仕候の作だという。


これほどまでに仕候が多くの絵額に関わったのには、その絵師としての技量もあるが、何より絵額の製作をかなり安く請け負ったというのが最大の理由ではなかろうか。一説には今の価格で3万円程の金額で一点モノの絵額を描いたそうだ。私が遠野に行った時、仕候の御子孫と会ったのだが今でも仕候の使った道具やデッサン帳のようなものなどが残されていた。


仕候が本格的に絵額製作に関わり始めたのが明治初期。そして明治24年に81才で亡くなるまで絵額を書き続けたと言う。

 こういう未婚の人が子供と遊んでいる絵額はあの世での幸福を願ったものとなる。これは山形のムカサリ絵馬や青森の婚礼人形と同じようなスタンスなので比較的判り易い。一方、故人の現世での生活を描写するというのは何の意味があるのだろう。生前の暮らしを多少誇張して描いた、その真意は一体どこにあるのだろう。これは私見だがこの世の生活を描写した絵額は遺族(または友人)が故人を偲ぶための絵画なのではなかろうか。つまり故人のためというより自分達のための絵額であると考えられないだろうか。近しい人が亡くなって寂しい、だからその故人を思い出すために生前の様子を描いたのではないだろうか。


いずれにせよ供養絵額の用途というか効能というか存在意義は奉納する側にあるように思える。


 デジカメや信心無き人には無縁であることが淋しい・・・
 

2006/12/05(火) 宝塚、花組、倉敷公演・・・
「祈り」のせいか、本日宝塚の方たち多く来たり。
さすが「花組」です。

花組(はなぐみ)は宝塚歌劇団第1番目の組。

1921年(大正10年)に公演数と生徒の増加によって月組と2つに分かれて誕生した、もっとも歴史の古い組。「雪月花」にちなんで、名づけられた。

「ダンスの花組」と呼ばれ、数多くのダンサー型スターが在籍している。男役の宝庫と呼ばれ男役同士の絡みに高い人気がある。

現トップスターは春野寿美礼で、娘役トップは桜乃彩音。他に彩吹真央(2006/12/12付で雪組に異動が決定)、真飛聖、愛音羽麗、未涼亜希、華形ひかる、真野すがた、桜一花、華城季帆 といったスターがいる。


2006/12/04(月) 無心の祈り・・・
私が仕事で美観地区に行くと毎日、今橋の上で太陽に祈っておられる老人がおられます。その行為に常に感動を覚える者です。

 そもそも祈りとは、その祈りそのものの力によって波動を高め、己の魂を開かせるてくれます。もちろん全身全霊をこめた祈りでなくてはなりません。お決まりの文句の繰り返しでは祈りとは言えませんし、真実の祈りは偉大なる霊的行為です。祈りはあくまでも手段であって目的ではない――これが最も正しい表現でしょう。
 祈りの言葉はたった一言しかありません。「何とぞ私を人のために役立てる方法を教え給え」――これです。
 自分のことより他人のためを優先し、自分の存在を意義あらしめるほど、それだけ霊性が発達します。それはあなた方の一人一人の内部に宿る大霊が発揮されるということです。至って単純なことなのです。ところが人間は教会を建立し、何やら難しい説教をします。私にも理解できない難解な用語を用い、また、これぞ宗教とばかりに仰々しい儀式を行います。
 そんなことよりも、生きる意欲を失くしている人のところへ出かけて行って元気づけてあげ、疲れた人に眠る場を与え、飢えに苦しむ人の空腹を満たしてあげ、渇いた人の喉を潤してあげ、暗闇に閉ざされた人の心に明るい真理の光を灯してあげることです。そうしたことを実行している時、あなたを通して大霊の摂理が働いていることになるのです。

 さあ、私も真のボランティア、ホームレス、アルツハイマー慰問に行きますよ。死んでからも地獄に行きたくないからね・・・・・合掌

2006/12/01(金) 似顔絵、肖像画の部で一番に・・・・
他の人が聞いたらまったく馬鹿馬鹿しいことだけど、Googleの検索で一番になりました。
 私は私なりに努力の達成感というか、満足しています。
人それぞれありましょうが・・・
人が感じる価値には、

「創造的価値」・・成し遂げたという価値観

「体験的価値」・・楽しいと思える価値観

があって、その2軸が作る面積が大きいほど充実している状態。

ストレスを感じている時は、その面積が小さくなっている

でも人間には、もう一つ軸があって

「態度的価値」・・自分はこうありたいという価値観

これを大きくすることによって小さくなったストレスを乗り越えられる。

 

それを言葉でいうと

『どうなる人生ではなく、どうする人生』である。

自分の人生を自分で決めて、

前向きに捉えて楽しんめば、やりがいを感じれるし

やりがいを感じて生きていけば、ストレスは乗り越えられる!

一人では難しかったら、人とシェアする。

 

みんなそれぞれの人生。

自分で自分を苛めないで楽しくやろうよね!

Googleの検索で「似顔絵、肖像画」のイメージで検索してくだされば・・以下のアドレスで解っていただけます。


http://images.google.co.jp/images?hl=ja&q=%E4%BC%BC%E9%A1%94%E7%B5%B5%E3%80%80%E8%82%96%E5%83%8F%E7%94%BB&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=&ie=UTF-8&oe=UTF-8&sa=N&tab=wi


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