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2006/10/05(木)
大阪市立美術研究所・雑感 104
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小出楢重のピカソ雑感
ピカソの絵は常に新しいようでまた古い馴染でもある。つい近頃も私は洋行当時の古トランクを開けて、そのナフタリンと西洋の下宿屋にいた時の香気とをなつかしみながら嗅いでいたら、その中からピカソ画集が出て来た。それは大戦直後のベルリンで私が安くいろいろの書物を買った中に交っていたものである。退屈まぎれに眺めてみると、いつもの馴染の絵がいろいろ並んでいる。そしてその制作年代を見ると、一番新しいところで一九二〇年頃であり、古いのは一九一二年代のものさえある。そして現在にいたるまでピカソはまたどれ位の絵を描き、どれだけの変化をしたかを考えると、とてもカメレオン位のなまぬるさでは競争が出来ないかも知れない。 しかしながらいかに変化してもカメレオンはやはりカメレオンで決して豚にもならず人間にもなり得ないと同じく、ピカソは一貫して常にピカソであるところが面白い。何かギターの半分と四角と三角とが交り合っても、点々が並んでも、斜線が重ねられても、あるいはまた古格によって女の肖像がすっきりと描かれても、あるいは古めかしい彫刻を直ちに絵画にまで変形させてみても、いかに転々してみても常にピカソはピカソとしか見えない。 極端な浮気性というものを私はピカソにおいて発見する。一年に五人の情人を取りかえることは日本人にとっては相当くたびれる仕事であり、ただそれだけで満足であり、なかなか芸術にまで手がとどかない。何しろ、今の日本はまだまだ他人の精力を借用して生きているために、一人の女房に精魂を吸い取られてヘトヘトである。 なお私の感心するところはその私のカバンの中の古い画集以後、今日にいたるまでの絵業には老年からくる衰弱とか勉強の連続から来る草臥(くたび)れとか、気力の衰えとか飽き飽きしたとかいう憐れさを見せないことである。大体西洋の大家は死ぬまでくたびれないのはいいことだと思う。 もし日本人が一生の間のある期間において、ピカソの一〇分の一だけの元気と浮気と無茶苦茶の大胆さを示したとしたら、きっと昂奮して死ぬか、あるいは二、三年のうちに萎びてしまうであろう。 あるいは年のせいという温気を感じ出して余生を柔順なる紳士と化けて続けるであろう。 それからピカソの絵についても一つ感じることは、写実の力を素晴らしく備えていることである。あれだけの力をもってすることならばどんな浮気も許されるであろう。とにかくピカソの写実力と、その不老不死の力と、悪魔的浮気根性と不思議な圧力等においてまったくわれわれは多少羨んでもいいと思う。しかしどうもピカソは、まったく東洋には昔から決してなかったものばかりを持っているところの毛唐人中の毛唐である。
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