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2006/10/02(月)
大阪市立美術研究所・雑感 102
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小出楢重 近代の生活と新技法
近代の一般の傾向を見るに活動写真はその映画館で悉(ことごと)くの封切を鑑賞し、お料理法と趣味講座と英語と体操はラジオで勉強し、野球は夏の大仕合を見ておき、絵画は秋の大展覧会を鑑賞すればそれで日本の芸術は先ず一年間の重要なる傾向を悉く知っておく事が出来る。あるいはそれ以上、フランス画壇の最新の潮流までも共にその大略を遠望する事さえ出来る。とすればこの不景気にして、しかも大作を収容すべき家なき芸術愛好家は、その無数の壁面の一枚の絵を持ち帰って狭い部屋へ懸けて見る必要はどうもなさそうである。友人の誰れかでもあるとか、特殊な関係のものはまた格別の義理人情が加わるが故に座右に置いてもいいが、先ず何の関係もなく頼まれもしない多くの絵画は、単に鑑賞しておけばそれでいい訳ではある。殊に銀座を散歩する如く、秋の季節において友人と、女の友と、断髪の彼女とともに漫歩の背景として展覧会場を撰ぶ事は、甚だ適当でもある。即ち日本における尖端(せんたん)芸術の封切りを彼女と共に味(あじわ)いつつ、会場にあっては誰れ彼れの知友に出会い、談笑し、彼女を紹介し、また人の女を羨(うらや)みなどする事も悪い事ではない。 さて画家はこれら漫歩の背景のための封切り絵を作らんがため、一年の間内職やらその他あらゆる方法によって生活と戦争しながら、あるいは親の足を噛(かじ)りながら、親の足を噛る事も当節はなかなか素人の考える位い容易な仕事でもないそうだが、様々の苦労を尽している次第である。 ともかく画家は封切りのために働く処の給料なき役者でもある。そして画家は何が何んでも封だけは切って見せたいという本能を持っている。 ところで、一度封を切った作品はも早や古手となってしまって二度の勤めは嫌がられる傾向を持ったりするので、勢いその絵は小品ならば万一にでも生活の一助とならぬ事もないが、大作であったりしては、画室で埃(ほこり)をあびて重ねられて行く。従ってただ一回の封切りが画家の生命ともなりつつある事は芸術のために喜ばしき現象とは思えない。 一九三〇年型の自動車の出現は去年のぼろ自動車を広場へ山積せしめるであろう如く、即ち近代の洋画家はその場限りの技法の華々(はなばな)しき効果をのみ考えはしないだろうか。これは近代の生活の様式と展覧会の組織と、画家の心との間に連関する処の悲しき連関ではないかとも思う。近代絵画に対するこれは私の持つ重大なる不安でもある。 さて私は、近代の新らしい油絵はどうして描けばよいかという事については一切述べなかったようである。しかし、どうしたら新式の絵が素人にも一朝にして描き得るかという便利な話がこの世に本当に存在するとは私には信じられない。もっとも一週間速成油絵講習会といった風の事を企てる香具師(やし)もあるだろうけれども、先ず正直な処さような話し位い莫迦(ばか)々々しいものはない。 恋愛は横町のカフェー何々の彼女となすべし、その技法は斯々(かくかく)と教えられて早速取りかかってはあまり素晴しく成功する見込みはなさそうに思われる。 それで私は主として近代の油絵の技法に対する心構えに関して多く喋(しゃべ)って見たつもりである。
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