美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2006/10/31(火) 全国の似顔絵描き紹介
今回は大阪の戎橋からお届けします。戎橋はストリートミュージシャンや自称お笑い芸人が多く出没する場所と聞いたので、足を運んでみることにしました。この日は、暦の上ではもう春だというのに寒風吹きすさぶ平日とあって、思ったほど人はいませんでしたが、素敵な似顔絵描きのお兄さんに会うことが出来ました〜。

いきなり失礼します! いつ頃からこの場所で似顔絵描きをやっているんですか? 「1年半以上前からです。平日は運送会社で仕事をしているので、仕事が終わってから毎日3時間くらいここで店を開いています。土日は昼の12:00くらいから出来る限りずっといますね」

じゃあ、毎日来ているってことですか? すごいですね! 「はい、雨が降らない限り毎日来ていますね。絵の値段は特に設定していなくて、気持ち分をいただくことにしているんですが、最初の頃は、似顔絵ではなくメルヘンチックなイラストを描いて売っていたので、中高生のお客さんが多くて、100円とか200円とかしか置いていって貰えなかったんですよ。それじゃ全然商売にならんってことで、似顔絵に切り替えたら、お客さんの層がガラリと変わりました。若夫婦が赤ちゃんや小さいお子さんの顔を描いて欲しいって頼んでくる場合や、あとは、40代以上の方が多いですね。最高年齢は80代のおじいさんでした。なので最近は、1枚につき平均3,000円くらいいただいています。1枚仕上げるのに約15分程度で、土日は20人から、多いときで40人程度のお客さんが来てくれています」


1枚15分程度で描き上げるというKouさんの作品の数々
かなり時給の良い仕事とみましたが(笑)、1年半以上もここでお店を開いていたら、色々な面白い体験とか出会いとかがあったんじゃないですか? 「1番大きな体験は、似顔絵ショップで働いたこと(笑)。ある日、ここでいつものように店を開いていたら、オーナーって人が突然やってきて、"屋根のある店で働いてみいへんか?"って言うわけですよ。で、"やります"ってことになって、京都にお店を出してもらったんです。行ってみたら、僕のほかにもう1人、似顔絵描きの人と占い師さんが同じスペースに出店していて……。結局、最初に言っていた条件と全然違うんで、トラブってやめました。あとは、雪の降る寒い深夜、年配の男の人が"描いてくれや"ってやってきて、最後に"おなか減ってるんとちゃうか。うどん食いに行かへんか〜"って誘ってくれて……。で、うどんをご馳走してもらったんですが、その時くれた名刺を見たら、市議会議員さんでしたね。僕が描いた絵を"うちとこのオフィスに大切の飾っとくわ"、言ってくれて……」

その方は一体いくらで絵を買ってくださったんですか? 「3,000円でしたね(笑)。今までの最高額は1万円です。その人は主婦で、ロックバンドの追っかけをやっているそうで、自分の好きなメンバーの写真を見せて、"これ描いて"って。誰の写真かは全くわかりませんでした(笑)」

"似顔絵描きとして自立したい"っていうような夢、ありますか? あと、絵を描く時のKouさんのこだわりとか……。「絵は独学なんですが、イラストレーターとしてやっていけたらいいなと思っています。最近は、例えば、お祭りや地元のイベントの時などに出店して似顔絵を描かせてもらっています。似顔絵を描く時のポイントは、"どっから来られはったんですか?"とか会話をすることで、その人の魅力的な表情が引き出せるようにすること。笑った顔とかが良かったら、その表情を目に焼き付けて、一気に描き上げます」


毎日ここへは自転車通勤(?。タイヤが低いので荷物をひきやすい
つまり普段はインタビューされるより、する側ってわけですね。

ところで、キュートな黄色い自転車がありますが、これで来ているんですか? 「はい。絵を描くための荷物を自転車の後ろに取りつけて家から乗って来ています。実は似顔絵描きのために最近この近所に引越したんですよ」

それもすごいですね! ひとり暮らしなんですか? 「いえ、彼女と2人で住んでいます」

は〜、それは残念です(笑)。ところで、絵の道具の上に携帯電話が置いてありますが、それについて教えて下さい。「これは、昨年12月に買ったF209iで、今までケータイとか一切持ったことがなかったんですが、イベントとか屋外の仕事の時、連絡が取れないと不便なので、やむを得ず買ったって感じです。機械オンチなので、パソコンとかもまったくやらないです。ケータイも彼女に色々と教えてもらって、メールとか打てるようになりました。だから着メロとか、待受け画面とかは全然やっていません」

メールは誰にどんなことを書いて送るんですか? 「彼女にしか送りません。通話も彼女とが1番多いですね」

一緒に住んでいるというのに、頻繁に連絡を取り合うなんて、かなり仲良いんですね! メールと通話の使い分けはどうしているんですか? 「彼女がバイト中の時は、喋られへんからメール打ってあげて、それ以外は通話です」


大阪の戎橋で似顔絵を描いて売っているKouさん。商売道具の鞄の中には、宝物の『コピック』のカラーペンがぎっしり
優しいんですねっ! で、この機種を選んだのは何故ですか? 「安かったから。本当は折りたたみ式のが欲しかったんですが、値段に惹かれて妥協しました。普通に使う分には、不自由はしていないです」

他にデジタルグッズやモバイルグッズって何かお持ちですか? 「何も持っていないです。僕の今持っている宝物は、この『コピック』っていうアルコールペンです。1本400円くらいで、鞄の中に100本程度あります。これがなくなったら、生きていけんって感じです。本当はこの倍くらい色があって全色揃えたいところです。一度にではなくちょっとずつ買い足していこうと思っています」

まだまだ寒いですけど、風邪などひかずに頑張って下さいね。また、インタビュアー山田が大阪に行くことがあったら、立ち寄りたいので、それまでお元気で〜。読者の皆さんも戎橋で彼の姿を見かけたら、似顔絵を描いてもらっちゃって下さい。ご協力、ありがとうございました! では、また次回です。

2006/10/30(月) 無償の奉仕ということ・・・
今日は朝から酔っ払いにからまれ、徹底的に叱りつけてやった。前から美術館、観光客に迷惑かけている年寄り男だが、俺もアル中の前歴あり、すぐ帰るよう諭したが、本人グダグダ言って、結局、警官に連れていかれる彼を哀れんだ。
 また何もしないで遠巻きに見ている観光客も哀れんだよ・・・

 何かしっくりこないので私の好きな倉商の子がやっている「足長おじさん」にカンパしてスッキリしたよ・・・

2006/10/29(日) 大和撫子はいずこに・・・・
「日本人の顔」が無くなったと言ったのは作家・司馬遼太郎氏だったと思うが、私も長年、似顔絵描いてきて、そのことを痛感している。アダルト系の顔で首や耳に安物の装飾品をぶらさげ、タラコみたいな口をパクパクさせているご婦人が多いのだ。故にまだ儒教の教えの残っている韓国女性の人気の秘密がわかるような気がする。「絵を描いてくれ」と持ってくる写真も本人の昔の写真が多いということも現実の今の顔が嫌いなのであろう・・・
 こういう傾向は昭和後期の高度成長期より、激しくなり「大和撫子」などトキと同じ運命辿ってきたのであろうか。

 今日も私の前に「パンツのヒモが切れたから300円おくれ・・」という女がやってきた。「昨日もやったのに・・・」というと「今日はブラジャのヒモ・・・」私は観光客に迷惑かけてはいけないと思いつつ、己の頭を切れるのを抑えながら、フト、こういう考えがよぎった。その前にきた「春ちゃん」という犬のことだ。
 「よし、300円おげるから、ハイお手・・・」するとするではないか。「おかわり」これもする。「じゃ、コロッは・・・」すると路上に寝転んで手を出している。
 まあ、こういうのは無邪気な方で絵を描いても金を払わない女の子には腹が立つ・・・
 早く、お迎えほしいよ・・・・・

形違えれも「恥」をなくした女が多いよ

2006/10/28(土) 青木繁とあけぼの館
青木の不遇時代を援助した音成三男の経営する旅館。
音成三男はまたムツゴロウ博士として知られてます・・・
それから青木の息子が福田蘭童、その息子が石橋エータローというのも教わりました。


 明治の天才的な洋画家・青木繁は明治15年(1882)久留米市荘島町の生まれ。同級生の坂本繁二郎とともに九州を代表する画家として有名です。
 明治36年(1903)の東京美術学校(現・東京芸大)時代には、「黄泉比良坂」他の作品が第8回白馬会展の白馬賞を受賞。
 名作「海の幸」に続く「わだつみのいろこの宮」も、文豪・夏目漱石が小説・「それから」の中で称賛するなど、華々しいデビューをしますが、 中央画壇の権威主義を嫌い、父親の死をきっかけに九州に戻ります。そして、そのまま中央画壇には復帰する事もなく、孤独と失意の中で28年間の人生を閉じました。



   などが旅館にあります。

2006/10/27(金) 青木繁の石橋美術館50倍楽しむ企画展
熊本の途中、青木繁の石橋美術館に寄りました。坂本繁二郎とともに青木も遊んだ筑後川、そして両家の旧家。案内してくれたのは前に紹介した元・法政大学の教授で自然体のご案内で、脅迫的ボランティアの多い、倉敷と違い、良き勉強になりました。坂本繁二郎の旧家を案内してくれたのは生前の坂本を知る近所のおばさんであったのも嬉しかったです。お礼をしょうとしても二人とも頑なに拒み、私の持っていた似顔絵を渡すと、昨日お礼の手紙頂きまいりました。
 夜、青木繁のミュージカルのお誘いも受けましたが、こちらは行けなかったのが残念でした・・・・


ピカソ、ルノワール、佐伯祐三、青木繁50倍楽しむ企画展
2006年10月1日(日)- 10月28日(土)

 石橋美術館がオープンしたのは、昭和31(1956)年、今から50年前のことです。懐かしく思われる方もいるのではないでしょうか。あるいは、どんな時代だろうと思われる方も。戦後10年、当時はまだ美術館はあまりなく、多くの人が美術の展覧を楽しみにおとずれました。50年という歳月のなかで、わたしたちを取り巻く社会環境や生活スタイルも変化し、それにともない、美術館の存在もまた変わってきました。今、皆さんにとってはどうでしょう、美術館って…。
 この展覧会は50周年にちなみ、5つのテーマ、10のセクションで構成しています。Architecture、Interior、Collection、Exhibition、Actionといった面から、石橋美術館のこれまでを、日本における美術館の動向とあわせて紹介します。ピカソをはじめ、ミレーやルノワール、佐伯祐三に藤田嗣治の絵画、そして茶道具など、作品そのものを鑑賞するだけでも、十分楽しんでいただけるラインアップです。さらに、どう美術館を、作品を楽しむのか、この機会にぜひ、お試しいただければと思います。


入場料: 一般 500円(400円) シニア 300円(200円) 大高生 300円(200円)
中学生以下無料
*( )内は15名以上の団体料金

休館日: 月曜日(10月9日は開館し、翌日休館)

主 催: 石橋財団石橋美術館、TVQ九州放送

後 援: 久留米市、久留米市教育委員会、財団法人久留米文化振興会


2006/10/26(木) 熊本県】−火の国の情熱的な「もっこす」
今日、熊本より三通のお手紙を頂いた。二人は似顔絵パーティでのお客さまだが、一人は大牟田で御世話になった元・法政大学の教授、山口氏からであった。以下手紙の内容は熊本県人の性格についてである・・・
九州で中心的な都市といえば福岡だが、地理でみると中心的なのは熊本だ。この九州の真ん中という地の利もあって、明治時代から長い間、熊本には政府の出先機関が多数置かれていた。戦後になって九州の中心は福岡に移っていくわけだが、いまだにそれを認めがたいという熊本県人が多いらしい。福岡にはライバル意識をもっているようなので、熊本県人の前で福岡のことをほめるのは控えたほうがよさそうです。

その熊本県人の気質だが、「火の国」といわれるだけに情熱的。そして、曲がったことが嫌いな正義感で頑固者だといわれます。熊本の男性を「肥後もっこす」というが、「もっこす」というのは頑固者という意味です。九州男児の代表県は、「肥後もっこす」の熊本か、「薩摩隼人」の鹿児島か、などという人もいるが、「いまどき九州男児なんていないのでは」という地元の声もあります。

さて、熊本県の特産品といえばいぐさが有名で、その生産量シェアはおよそ9割だからほぼ独占状態。それから土産物としては、からしれんこんや球磨焼酎、肥後象眼などが知られている。この他に有名なものとして「肥後ずいき」なんてのもあるが、熊本県人、特に女性に向かって「肥後ずいきって何?」と聞くのはタブーらしいので注意が必要ですよ。
 それに熊本は昔から「教育県」としてその名を残しています。その出発点は、明治のはじめ次々と設立されていった「私立学校」による中等教育にあるといわれています。明治12年、男子校として出発した佐々友房先生の「同心学舎」や、同21年、女子教育のために開校した竹崎順子先生の「熊本女学校」などがその代表例でしょう。
 明治20年代には、全国に先駆けて、私学の公教育を評価し、県費による私学補助が実施されます。私立学校の経費を県費で負担したという当時の熊本県と県議会の英断は、今日でも高く評価できるものではないでしょうか。と結んでありました。

2006/10/25(水) 熊本の清田会長、上野景昭氏ありがとう。
(株)同仁堂社長 上野景昭氏
昭和21年、熊本市生まれ。
昭和48年 (株)同仁堂入社。
開発部部長、常務取締役を経て、
59年から現職。
関連会社の(株)ケミカル同仁、
(株)同仁化学研究所の取締役を兼ねる。



今、熊本の都市部が大きく変わっていますが、その中で人が暮らす場所としての豊かさは、大切にしていくべきだと思います。効率性だけのギクシャクした街にはしたくないですね。
 例えば、上通などは、老舗の専門店が多いし、昔からそこに住み商いをして来た人たちがいます。そういう暮らしの匂いが都市機能と共存しているところに、上通の魅力があるのだと思います。神社や教会、喫茶店やギャラリー、緑もあって、ホッとくつろげる空間がある。裏通りには古い建物を生かした店も増えています。私のイメージでは、つたの絡まる古いビアホールが似合うような街になるといいなという感じですね。
 街中の交通についても、もっと車を使わなくていいような整備が必要じゃないでしょうか。これから高齢化が急速に進むと、楽に移動できる、人にやさしい交通手段が必要になると思います。少なくとも、都心部には多くの車が乗り入れない工夫が必要です。商店街への納品も、共同納入システムなどをつくってトラックの乗り入れを減らすべきではないでしょうか。
 先日、ドイツのフランクフルト郊外に行って来たのですが、そこではライン川に橋がかかっていないんですね。みんな渡し船で行き来している。両岸に鉄道はありますが、荷物も船で運んでいるんです。ああいう川の生かし方もあるんだなと思いました。ちょっと不便だけども、大切なものは守る。魅力的なふるさとをつくるためには規制やコストも必要なんだと思います。
 今はどの業界も競争が激化して大変な時代です。だからこそ、それぞれの企業や商店が生き残りながら、一方で自分たちの街の魅力となるものを意識的に守っていくことが大事なんじゃないでしょうか。都会へ出て行った人も帰って来たくなるような熊本、ホッとできる熊本にしていきたいですね。

2006/10/22(日) 今日一日なんとか終了
今日一日なんとか終了。しかし、熊本の名士多数来場で心が痛むね〜

2006/10/21(土) 私は熊本です
和式旅館に泊まり、同仁堂で似顔絵の仕事です。色々面白い事ありまして、詳しくは後ほど

2006/10/16(月) 病魔にめげず、ほほえみを描 きつづける人
「ほほえみを描 きつづける〜河合正嗣さんのテレビを見る。
110人 の“ほほえみ”を描 く 河合正嗣さんは「人間って何だろう、苦しみの中に微笑む人をえがきつづけるのだ。
番組 のスタジオに、鉛筆 で描かれた たくさんの肖像画 が展示されていた。全て微笑 む人物 の表情が、いきいきと描かれています。
いわんやこの絵の作者は、幼い頃に、筋ジストロフィーを発症し、今、ひとつの挑戦をするのだ。鉛筆で一枚一枚、丹念 に、110人もの人々の“ほほえみ”を描こうというのです。 彼は、“ひとと人を、ほほえみで結 ぶ”という願いを込めて、110人〔=ひとと人〕を目標に“ほほえみ”を描き続ける姿には感動したね。
 俺なんか頭以外は健康で丈夫である。何十万人の似顔絵を描き続けてきたが、無私の「ほほえみ」の似顔絵は何枚描いただろうか。
 俺なんかまたまだだよ・・・・

2006/10/13(金) 倉敷・屏風祭りにオイデナセェ・・・
倉敷・屏風祭りが10月18日から三日間おこなわれます。
今は縁台とか縁側など死語とかしましたが、この祭りには残ってますよ。ところで私は熊本の商店街の活性化に招かれていますのでおりません、残念ですが・・・・オイデナセエ・・


 屏風祭りは江戸時代、文化文政(1804〜1829年)頃の阿智神社の祭礼は、別名「屏風祭」といわれていました。
町内の各家が通りに面した格子戸を外し、自慢の屏風を飾り花を活けて訪れる人々をもてなしたといわれています。
その心意気を継承しつつ、当時の伝統を現代によみがえらせたのが「倉敷屏風祭」です。
今年で5回目を数えるこのお祭りは、はやくも秋の風物詩として倉敷の町になじんできました。

各家やお店が屏風だけでなく、秘蔵の家宝や自慢の品、また風情ある秋の花を活けて、訪れる皆さんの目をたのしませています。
普段は目に触れることのできないすばらしい品々、またおもてなしの心の粋を、ぜひご覧になってみませんか?

2006/10/12(木) マヌエル・ガッサーの「巨匠達の自画像」
マヌエル・ガッサーの「巨匠達の自画像」は私の愛読書の一冊で似顔絵に挫けそうになると、いつも取り出して読んでいる。
 ガッサーは「巨匠たちの自画像」の中で、自画像芸術の崩壊は印象派の勝利とともに始まると述べているが、絵画の純粋性の追求は、自画像もまたかつての人生観を放棄した。印象派時代の画家たちは自己を直接あらわすよりも、光りの中の自己の形と色を描いている。あたかも自己の内面を描いてもいたしかたないことを共通に理解しているようにみえる。
 それでも、多くの人々が自画像「とりわけ優れた画家の手になる自画像」の魅力にひきつけられるのは、きわだった個性をかいま見て天才の内面に少しでも触れたいという欲求が強いからといえる。
 画家たちは常に、人間として美術家としての自己の頂点に立って自画像を描くという事実があり、自画像に私たちが相対するのは、誰かの単なる肖像を超えた画家のある時期の総体、場合によってはその生涯の全体像でさえあるという事実があるからである。
 その自画像から強烈な印象を受ければ受けるほど、何故その時に自画像が描かれたのかとの事情をつかみたいと願うのは、自画像が風景画や肖像画と異なり、自分自身を対象とする極めて個人的な性格の強い絵画である以上、当然の願望といえる。よって観る者も自画像を受容するには、当の画家の生涯や作品についての最低限度の知識が必要となる。

 画像はマネのものである。

2006/10/11(水) 絵画療法(≒アートセラピィ)について・・


 アートセラピィ(art therapy)のartは、もともとはラテン語のars(技術)に由来しています。"ars"という言葉はもともと「芸術」といった意味に加えて、もっと広く「技術」や「こつ」といった意味も持っているので、芸術療法(≒アートセラピィ)とは、ただ芸術的な作品を作るというだけでなく、もっと広く「心に働きかけるもの」を意味していると考えたほうが良いでしょう。
 「芸術」と名がついているので、治療者は無意識的に「芸術」を指向してしまい、その結果として「美」を追求することが目的になってしまう恐れがあります。あくまでも「心理療法(精神療法)」であるかぎり、その目的は「美」そのものではなく、「こころの苦悩の癒し」「からだの苦痛からの解放」であるべきです。治療の一環としてみるならば、その結果(出来上がった作品など)よりも、過程の方が重要な場合も多いのです。
 芸術療法の起源はきわめて古く、アリストテレスが悲劇の効用としてカタルシス(精神療法でも重要なメカニズムの一つで、無意識によって抑圧されていたり、あるいは意識的に抑えられ、表現されないでいた感情や思考、体験が勢いよく十分に表現されたときにみられるすっきりとした気分の状態をいい、浄化作用ともいう)を説いた古代ギリシアにさかのぼり、当時〈音楽の処方〉として竪琴が用いられた記録もあります。音楽はその後もメランコリーの治療に使われたようです。ただし、芸術療法として一般化するのは、精神科の医療が近代化する20世紀になってからで、これを研究対象とする国際表現精神病理学会も1959年に組織され、〈芸術療法士 art therapist〉という専門職も欧米では正規に設けられています。

2006/10/10(火) 美観地区の落書きより・・・
あくまで私見だが、落書きした少年は自己確認と歪んだ自己愛を満足したかったのではないか。
 
 自己確認型犯罪とは、自己の存在感、支配力、顕示欲を満たすための犯罪です。 現代の子どもたちは、あふれるほどの物質的豊かさの中、満たされない思いを持って苦しんでいます。
彼らは、自分自身の希薄な存在感「空虚な自己」を抱えているのです。少年たちは語ります。「万引きをしているときだけ生きている実感がする」。「リストカットをして、流れる赤い血を見ているときだけ、自分が生きていると感じる」。
 「空虚な自己」と同時に「幼児的万能感」を持つ少年たちも多くいます。彼らは、下積みや努力が苦手です。実は本当に自信があるわけではなく、隠された強い不安と劣等感があるからこそ、子供じみた思い上がりから卒業できないのです。
 彼らは、歪んだ自己愛の持ち主だとも言るでしょう。自分を愛すること自体はもちろん大切なことですが、彼らの歪んだ自己愛は、他者を見下しさげすむことで成り立っています。
このような肥大した自己愛を持つ少年たちは、傷つくことを極端に恐れています。傷つけられ、自己愛が脅かされるとき、彼らは周囲も自分自身も驚くほどの怒りと攻撃心を爆発させてしまします。
 いわゆる「キレた」状態で刃物を振り回すこともあります。キレた心理状態で犯罪計画を練ることもある。傷ついた少年たちは、柔軟に物事を考え一歩ずつ問題解決を図ることができず、「一発大逆転」をねらってしまうのです。
 これは行き過ぎたの管理社会の反動と、少年たちにストレスの発散の場がないことを意味しているのでしょう。
 管理、管理ではなく、もっと本当の自立心を養う場をもうけんべきではないでしょうか。
 倉敷も八十八ケ所巡りも関係者の努力で完成したことだし、倉敷ナンバーもよろしいが、ゆっくり倉敷巡りして英気を養うのも一考ですよ。

 日にち 11月18日午前8時
 観龍寺集合 若い岡大のお嬢さんもいますよ。

2006/10/09(月) 行政側とおせっかい人間にも申す。
いつからかカラオケボックスやボウリング場など夜間営業施設について、16歳未満の出入りを原則 午後7時までとする岡山の「改正・青少年健全育成条例」 が施行されました。
 ちなみに岡山、奈良、秋田など規制厳しいところほど重代な事件がおこってるんだよ。


この改正条例には、有害環境の浄化策として、 「有害図書類 (エロ本) の販売等の禁止」 ・ 「有害がん具類 (大人のおもちゃ) の販売等の禁止」 などが、盛り込まれています。


このような抑圧された社会の中で、いったい何が生まれるのでしょうか。 誤解を恐れずに言うならば、エロ本 買い込んで、学校の男子更衣室で、まわし読みしているほうが、よっぽど健全だと思いますよ。


あえてもう一つ、誤解を恐れずに言うならば・・・ 自分もそうでした! 現代に生きる男子高校生は、本当に大変 ていうか、可愛そうだと思います。 この抑圧された社会のなかで、おせっかいな新撰組ではあるまいし「見回り組み」など作って本当に性犯罪が減るとでも思っているのでしょうか。 


このような条例を、 「青少年不健全化条例」 と呼びたいよ。

2006/10/08(日) 美観地区に変身願望の人が・・・
ちょっと見ると不気味ですが、話してみると中々面白い人で観光客と記念撮影したりして、人気者でした。

 あえて行政側に言う。
 こういう人を取り締まってはいけないよ。

 例の美観地区の落書きにしろ、いい子ぶっている子が、認められないで一つの自己発言の行為だったと思う。

 行政側も市会議員の万引き、警官の飲酒運転、事件を起こしているのは行政側の方に多いよ。

 いずれにしろ、こういう超管理社会では息抜きする場、発言、表現する場が早急に必要と思うが如何?

2006/10/05(木) 大阪市立美術研究所・雑感 104
小出楢重のピカソ雑感

 ピカソの絵は常に新しいようでまた古い馴染でもある。つい近頃も私は洋行当時の古トランクを開けて、そのナフタリンと西洋の下宿屋にいた時の香気とをなつかしみながら嗅いでいたら、その中からピカソ画集が出て来た。それは大戦直後のベルリンで私が安くいろいろの書物を買った中に交っていたものである。退屈まぎれに眺めてみると、いつもの馴染の絵がいろいろ並んでいる。そしてその制作年代を見ると、一番新しいところで一九二〇年頃であり、古いのは一九一二年代のものさえある。そして現在にいたるまでピカソはまたどれ位の絵を描き、どれだけの変化をしたかを考えると、とてもカメレオン位のなまぬるさでは競争が出来ないかも知れない。
 しかしながらいかに変化してもカメレオンはやはりカメレオンで決して豚にもならず人間にもなり得ないと同じく、ピカソは一貫して常にピカソであるところが面白い。何かギターの半分と四角と三角とが交り合っても、点々が並んでも、斜線が重ねられても、あるいはまた古格によって女の肖像がすっきりと描かれても、あるいは古めかしい彫刻を直ちに絵画にまで変形させてみても、いかに転々してみても常にピカソはピカソとしか見えない。
 極端な浮気性というものを私はピカソにおいて発見する。一年に五人の情人を取りかえることは日本人にとっては相当くたびれる仕事であり、ただそれだけで満足であり、なかなか芸術にまで手がとどかない。何しろ、今の日本はまだまだ他人の精力を借用して生きているために、一人の女房に精魂を吸い取られてヘトヘトである。
 なお私の感心するところはその私のカバンの中の古い画集以後、今日にいたるまでの絵業には老年からくる衰弱とか勉強の連続から来る草臥(くたび)れとか、気力の衰えとか飽き飽きしたとかいう憐れさを見せないことである。大体西洋の大家は死ぬまでくたびれないのはいいことだと思う。
 もし日本人が一生の間のある期間において、ピカソの一〇分の一だけの元気と浮気と無茶苦茶の大胆さを示したとしたら、きっと昂奮して死ぬか、あるいは二、三年のうちに萎びてしまうであろう。
 あるいは年のせいという温気を感じ出して余生を柔順なる紳士と化けて続けるであろう。
 それからピカソの絵についても一つ感じることは、写実の力を素晴らしく備えていることである。あれだけの力をもってすることならばどんな浮気も許されるであろう。とにかくピカソの写実力と、その不老不死の力と、悪魔的浮気根性と不思議な圧力等においてまったくわれわれは多少羨んでもいいと思う。しかしどうもピカソは、まったく東洋には昔から決してなかったものばかりを持っているところの毛唐人中の毛唐である。

2006/10/03(火) 大阪市立美術研究所・雑感 103
  絵画き[#「絵画き」はママ]の日記

 油絵描きの日常生活というものは、それが順調であればあるほど実に単調きわまるものである。それは第一、生活が貧弱でなっていないからそれ以上何か面白いことがやってみたくとも出来ないことがその主な原因かも知れない。まずその日その日辛うじて無事に絵を描いて暮すことが出来ていれば、実にそれだけで、めでたき限りの順調といわねばならないのである。したがってどうも絵描きの日記などに大そう面白いというものはどうもあまりないようである。
 彼は起きた、モデルが来た、絵を描いた、仕上がった、あるいはてこずった、怒った、椅子を投げた、妻君が弱った、散歩してライスカレーを食べて機嫌がなおった、寝た、月末が来た、困った、何とかした、という位が私の毎日の日記かも知れない。
 こんなことが一生涯続くのかと思うと、あまり面白いものとは思えない、したがって日記などつける気にもなれない。がしかしこの単調な順序が一歩間違うともう絵が一枚も描けなくなるのである。
 例えば妻子家族の病気とか、あるいは恋愛関係、それから起こる喧嘩口論や悲劇やうるさい雑用が引きつづきどしどし起ころうものなら絵描きは休職だ。その代り日記は面白くなるだろう。
 文士などはその点結構だと思う。なるべく複雑でうるさい恋愛関係でも持ち上がってややこしければややこしいだけ多く神経が動き出し、やがては何か書けることともなり稿料ともなるわけかと思う。
 ところで絵描きはこんな場合、神経だけは文士と同じくらい昂ぶるけれども、その神経はかえって絵の邪魔をする神経であって、まったく作画のためには何の役にも立たないものであるから厄介だ。
 ロダンは賢い芸術家だから、人は二つの熱情に仕えることは出来ないといって、なるべく結構な問題が向こうから招待しても平に避けているのである。私の如きうっかり者は招待されるとついその手に乗りたがる傾向があるので大いに用心している次第である。
 それでまず近頃、私は辛うじて絵を描いて暮している。すなわち朝起きてそうして寝たというすこぶる平凡単調な生活を危いながらも大切に守っている。したがって日記として書き記すべき何事もない。
 ところが二、三日前から絵を邪魔する要素であるところの胃病が起こった。胃病が起こると必ず夢を見る。昨夜見た阿呆らしい夢を付録としてちょっと紹介しておく。
 一台の飛行機が西の空から飛んで来た。私は見ていた。それが近所の湯屋の煙突へ衝突したのだ。おやと思う瞬間、両翼はもぎれてしまって魚のような胴体がフワリフワリと中空を泳いでいるのだ。二人の飛行家がその上で狂人の如く駆けまわっているのがよく見えた。私はどうすることかと見ていると二人はパラシュートを持って飛んだのだ。一つは赤で一つは白だった。それが馬鹿に綺麗だった。そして二人とも電線に引っかかったのであった。下で見ていた群集の一人が電線はおかしいぞと叫んだ。しかし私はそれでほっと安心をして朝の九時まで寝てしまった次第である。

2006/10/02(月) 大阪市立美術研究所・雑感 102
小出楢重
近代の生活と新技法

 近代の一般の傾向を見るに活動写真はその映画館で悉(ことごと)くの封切を鑑賞し、お料理法と趣味講座と英語と体操はラジオで勉強し、野球は夏の大仕合を見ておき、絵画は秋の大展覧会を鑑賞すればそれで日本の芸術は先ず一年間の重要なる傾向を悉く知っておく事が出来る。あるいはそれ以上、フランス画壇の最新の潮流までも共にその大略を遠望する事さえ出来る。とすればこの不景気にして、しかも大作を収容すべき家なき芸術愛好家は、その無数の壁面の一枚の絵を持ち帰って狭い部屋へ懸けて見る必要はどうもなさそうである。友人の誰れかでもあるとか、特殊な関係のものはまた格別の義理人情が加わるが故に座右に置いてもいいが、先ず何の関係もなく頼まれもしない多くの絵画は、単に鑑賞しておけばそれでいい訳ではある。殊に銀座を散歩する如く、秋の季節において友人と、女の友と、断髪の彼女とともに漫歩の背景として展覧会場を撰ぶ事は、甚だ適当でもある。即ち日本における尖端(せんたん)芸術の封切りを彼女と共に味(あじわ)いつつ、会場にあっては誰れ彼れの知友に出会い、談笑し、彼女を紹介し、また人の女を羨(うらや)みなどする事も悪い事ではない。
 さて画家はこれら漫歩の背景のための封切り絵を作らんがため、一年の間内職やらその他あらゆる方法によって生活と戦争しながら、あるいは親の足を噛(かじ)りながら、親の足を噛る事も当節はなかなか素人の考える位い容易な仕事でもないそうだが、様々の苦労を尽している次第である。
 ともかく画家は封切りのために働く処の給料なき役者でもある。そして画家は何が何んでも封だけは切って見せたいという本能を持っている。
 ところで、一度封を切った作品はも早や古手となってしまって二度の勤めは嫌がられる傾向を持ったりするので、勢いその絵は小品ならば万一にでも生活の一助とならぬ事もないが、大作であったりしては、画室で埃(ほこり)をあびて重ねられて行く。従ってただ一回の封切りが画家の生命ともなりつつある事は芸術のために喜ばしき現象とは思えない。
 一九三〇年型の自動車の出現は去年のぼろ自動車を広場へ山積せしめるであろう如く、即ち近代の洋画家はその場限りの技法の華々(はなばな)しき効果をのみ考えはしないだろうか。これは近代の生活の様式と展覧会の組織と、画家の心との間に連関する処の悲しき連関ではないかとも思う。近代絵画に対するこれは私の持つ重大なる不安でもある。
 さて私は、近代の新らしい油絵はどうして描けばよいかという事については一切述べなかったようである。しかし、どうしたら新式の絵が素人にも一朝にして描き得るかという便利な話がこの世に本当に存在するとは私には信じられない。もっとも一週間速成油絵講習会といった風の事を企てる香具師(やし)もあるだろうけれども、先ず正直な処さような話し位い莫迦(ばか)々々しいものはない。
 恋愛は横町のカフェー何々の彼女となすべし、その技法は斯々(かくかく)と教えられて早速取りかかってはあまり素晴しく成功する見込みはなさそうに思われる。
 それで私は主として近代の油絵の技法に対する心構えに関して多く喋(しゃべ)って見たつもりである。

2006/10/01(日) 大阪市立美術研究所・雑感 101
小出楢重画論より

大和魂の衰弱

 私自身の経験から云うと、私達ちの学生時代は、自分等の作品を先生の宅へ持参して、特に見てもらうと云う事をあまり好まないと云う気風が多かった様に記憶する。殊に展覧会前などに於て持参に及ぶ男を見ると、何んだ、嫌な奴めと考えられた位いのものであった。自分の絵は自分で厳しく判断すれば大概判っているもので、それが判らない位いの鈍感ならさっさと絵事はあきらめる方がいいと考えていた。そして尚お、先生達ちの絵に対してさえも厳しい批評眼を持つ事を忘れなかった。
 学校や研究所は自分達ちの工場と考え、お互が励み合いお互で批評し合い、賞め合い、悪口をいい合い、或は自分を批判し尽して以て満足していたものであった。
 初めて文展が出来た時、私達ちは何も知らずに暮していたが、多少大人びた者共は、ひそかにお互の眼を掠めて作品を持って先生達ちの内見を乞いに伺うものが現れた様だった。左様な所業は何かしら非常な悪徳の一つとさえ見做されていて、敢えて行うものは、夜陰に乗じて、カンヴァスを風呂敷につつみ、そっと先生の門を敲くと云った具合であったらしい。又学生の分在であり乍ら文展に絵を運ぶと云う事は少年が女郎買いすると同じ程度に於て人目を憚ったものである。或は、むしろ、女郎買いの方は憚らなかったとも云えるが、文展出品は内密を主んじる風があった。
 私などは、殊の外恥かしがり屋の故を以てか、浅草や千束町へは毎晩通っていたが、文展へ絵を出す如き行為は決してなすまじきものであると考えていた事は確かである。そして吾々はそれによってある気位いを自分自身で感じていたものだった。先ず鞭声粛(シュク)々時代と云えば云える。東洋的大和魂がまだ吾々の心の片隅に下宿していたと云っていいかも知れない。
 その私達ちの学生時代からたった十幾年経た今日、時代は急速に移って、鞭声粛々とは何んですかと訊ねられる事に立ち到った。今に大和魂と云った位いでは日本でも通じなくなる時代が来ないとも限らない。
 勿論、画学生は数から云って、今とは到底比較にならない少数のものが、本当に苦労して勉強していたものであるが、私達ちの時代よりもっともっと以前にあっては、全くこれは話にならない処の苦労をなめた処の少数にして真面目な研究者があった訳であろう。然し、嫌な奴も存在したであろう。
 目下芸術教育は盛んに普及し、一般的となり大衆的となりつつある。従って、どれが専門の画学生やら、アマツールやらさっぱり判らぬ時代となって来ている。田舎の図画の教師達や図案家、名家の令嬢、妻君、女学生、会社員、あらゆる職を他に持っている人達の余技として、絵画が普及し、隆盛になりつつある様である。
 それは真とに日本文化の為めに結構な事であるが、それだけ一般化され、民衆化され、平凡化されて来た芸術の仕事の上に於ては、従って往時の画家の持っていた処の大和魂とも申すべき画家の気位いが衰弱して行く情けなさは如何ともする事が出来ないのである。そしてただ、一寸、入選さえ毎年つづけていれば、それで校長と親族へ申訳が立つと云う位いの、安価な慾望までが普及しつつあるかの如くである。
 お引立てを蒙る、御愛顧を願う、と云う文句は米屋か仕立屋の広告文で最早や無いのである。芸術家は常に各展覧会に於て特別のお引立てと御愛顧を蒙らなければならないが為めに、年末年始、暑中は勿論、かなりのはがきさえも用意せねばならない時代である。そうしなければ、この文明の世界に絵描きは立っても居ても居られないと云う場合に立ち到っているかの如くである。
 従って近頃位い、各先輩や審査員の家へ絵を持って廻る画学生の多い時代はかつて無いと云っていいかも知れない。
 批評を受けることは必ずしも悪い事では無いが、それが単に絵の批評だけであるならいいが、或はそれ以外の点に目的がある如き頗るややこしい場合がかなりあるのである。
 とに角一度審査員の目に触れさせて置く必要があると云う考えから、無理やりに見せにくると云う事が無いとは断言出来ない事を私達ちは感じる。その証拠に、この絵はよくないから駄目だと考えますと云った筈の絵が矢張り出品されている事も多いのである。
 ひどいのになると、頼み甲斐ある先生のみを撰んで一つの絵を持ち廻っている人達ちさえあるものである。そして、悉く内意を得て置くと名誉にありつき易いと云う考案である。
 それを吾々が何も知らず、うっかりと、時間を捧げて苦しい思いを噛み殺し乍ら正直に何とか批評をさせられる訳である。後に到ってその男が各人の玄関へ立ち現れたと聞くに及んで私達は淫婦にだまされたよりも尚お更らの不愉快を感じる事屡々である。それらの人種を私達は廻しをとる男と呼んでいる。
 全く、近代世相に於ける人の心は単純なる大和魂では片づけられない。今の時代にそんな野暮な事は流行しませんよと云われれば全くそれまでの話である。廻しをとる位の事は全くの普通事だと云えば左様らしくもある。中元御祝儀と暑中見舞と、相変りませず御愛顧を願わなければ全く以て、食って行けない時代であるかも知れない。然し乍ら、左様に苦労してまで描かねばならぬ程、面白い油絵であり且売れる見込みのあるべき油絵ではあるまいと思うのだが。
 私は秋の季節になると近頃よくこんな事を考えさされるのである。


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