美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2006/07/31(月) 大阪市立美術研究所・雑感 59
倉敷美観地区の町並保存について

鶴形山のすそ野に開けた美観地区は、倉敷の歴史の原点であり、町並みはほぼ江戸時代と変わらない遺構を今日に伝えている。およそ400年以前はあたり一帯は海であり、鶴形山は「内亀島」とか「東亀島」と呼ばれた漁村であり、海運によって発達した村であった。 その後、倉敷は備中松山城の玄関港として、備中国の幕府支配地からの米や物資の集散地となり,水夫屋敷や船蔵屋敷が免税地とされるなどの保護をうけ、町は形づくられ栄えて来た。これらの町並みは、おおむね次のような経緯で保存が進められた。
・昭和20年代 
      「倉敷を日本のローテンブルグにしよう」と町並み保存を最初に提唱した先覚者は、クラレ社長の故・
      大原総一郎。昭和13年(1938)ドイツに留学中、中世の古典的な町並みを残すローテンブルグ市に
      魅せられたが、第2次世界大戦で焼失した。ところが、その後見事に元の町並みに復元し、町の歴史
      を日常生活に生かしていることに大きな感動を覚えた。戦災をまぬがれた倉敷の町並みも,文化的な
      遺産として後世に残すべきことを倉敷市出身の建築家浦辺鎮太郎らに提唱し,訴えられた。 
・昭和21年6月
      大原総一郎が招いた柳宗悦(やなぎ・むねよし)の指導で岡山県民芸協会が設立される
昭和23年1月27日付山陽新聞
      県民芸協会の外村吉之介は,倉敷の蔵造り民家を「観光風致地区」に指定するよう全国へ紹介にのり
      出す。民芸という視点から町並み保存を訴えた。
       ○倉敷の民家利用第1号は,倉敷民芸館で昭和23年11月開館、第2号は倉敷考古館で昭和25年11
        月開館
・昭和24年1月
      倉敷町並み保存の第1回座談会が倉敷民芸館長外村吉之助ら地元の有識者によって開かれる。この
      年、「倉敷都市美協会」が発足す。地域住民(有志)による町並み保存運動団体としては全国初
・昭和24年10月号「朝日カメライギリス海軍大佐ジェームズ・エイ・ダウンズが撮った倉敷の町屋写真が掲載され,地域の人たちも認識しだす。
・昭和25年2月イギリスの詩人エドマンド・ブランデンは倉敷民芸館にて「瞥見(べっけん)」という詩で倉屋敷の情景を詠む。
浦辺鎮太郎は、JAAのある対談で、「人間が歴史をつくるのではなく、歴史が人間をつくる」と言ったポール・バレリーの言葉を引用しながら、「建築家が作品の原因なのではなく、建築家というのは作品の結果なのであり、例えば、倉敷の『アイビー・スクェア』なんかでも、浦辺鎮太郎がつくったんじゃなくて、浦辺鎮太郎というのは『アイビー・スクエア』の結果なのである」と語ったことに感銘を受けたことを思い出す。
 かつて「建築年鑑賞」という「賞」の審査に関わっていた私は、最終候補に残った浦辺鎮太郎の「倉敷国際ホテル」と菊竹清訓の「出雲大社庁舎」のどちらにするか迷った結果、内部の使われ方への細心な配慮には感心しながらも外観があまり好きになれなかった前者ではなく、「革新的」な後者に投票したのであるが、それにも拘わらずというか、それだからこそというか、先の浦辺さんの言葉には強い衝撃を受けたのである。
 浦辺さんは、建築家として少しばかり道草を食ってきた、そのことが、独特な思考を持った建築家たらしめた面があるのではないか。京大を出てすぐに、倉敷紡績の営繕に就職、戦争中は飛行機関係の仕事をし、戦後はクラケン型プレハブ住宅をつくるためのコスト計算や工程管理など「技師」とし ての長い経歴を積んだということ、それに、倉敷の大原総一郎の庇護の下、倉敷という「自治的」な街に根を下ろして仕事をしてきたということ、それらのことが、その後1962年になって初めて独立した建築家浦辺錆太郎の強力なバックグラウンドを形成したものと見る。
  まさに、浦辺鎮太郎は歴史の結果と自覚されたのであろうか。だからこそ「一建築家が作家意識なんかで勝手なことをやるのは見ておれない」とか、 「空理屈をこね回すヤツを見ると虫酸が走る」などと、平気で言ってのけるのである。
  しかし、頑固な面だけでなく、温厚な人でもあった。道草を食ってきたことを「自分には要領が悪いところがある」と言っておられたが、しかし、その人生の中で一旦オリエンテーションを決めたら、何年かかろうとそれを変えてはならないとも言い、5年、10年という単位ではなく、30年という歴史的時間で考えるべきであるとも言っておられた。当然、孫の時代までである。

2006/07/30(日) 大阪市立美術研究所・雑感 58
安藤忠雄氏来倉。倉敷の有名建築家・浦辺鎮太郎 氏などの講演。

大阪市生まれ。ボクシングの試合で得たファイトマネーなどを手にアメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、アジアを旅行しながら、独学で建築を学ぶ。その頃に、彼が撮影した写真はルイス・カーンの作品集などで使われている。
双生児の兄として生まれる。双子の弟は北山孝雄。東京で都市コンサルタント業/商品デザイン業-北山創造研究所を経営。3人兄弟で一番下の弟は建築家の北山孝二郎(ピーターアイゼンマンとのコラボで名を馳せた)。初期の作品(ローズガーデン/1977/神戸市生田区、等)のいくつかは弟、孝雄の所属していた兜l野商品研究所(1992年兜l野総合研究所と改名<代表=浜野安宏(セツ・モードセミナー出身)>)と共に実現した。

一般的に独学と知られているが、建築事務所での短期勤務歴はある。また、高校卒業後はセツ・モードセミナーに参加。 セツ・モードセミナーとは故長沢節が創った伝説の美術学校。 卒業生には 花井幸子 石津祥介 金子功 山本耀司 渡辺雪三郎 四谷シモン 浜野安宏 ケンタロウ ホンマタカシ 網中いづる 飯野和好 井筒啓之 金子国義 木村タカヒロ 高田理香 寺門孝之 ペーター佐藤 花くまゆうさく 穂積和夫  峰岸徹 メグホソキ 早川タケジ 樹木希林 桐嶋かれん 藤谷美紀 など各界の第一線で活躍するクリエーターが多く卒業している。 その後、独学を母体に通信教育等を利用しインテリア/SD等を学ぶ。建築以前の初期作品には関西を中心とした喫茶店等のインテリアデザインが有る。

1969年に安藤忠雄建築研究所を大阪に設立。個人住宅を多く手がけた。「住吉の長屋」(大阪)が高く評価され、大規模な公共建築ではなくごく小さな個人住宅としてはじめて日本建築学会賞を獲得した。以降、コンクリート打ち放しと幾何学的なフォルムによる独自の表現を確立し、世界的な評価を得る。1980年代は関西周辺(特に神戸・北野町、大阪・心斎橋)での商業施設設計や寺院・教会設計が相次ぐが、1990年代以降は公共建築、美術館建築、また全国や海外の仕事も増えている。

1987年、イェール大学客員教授に就任する。
1988年、コロンビア大学客員教授に就任する。
1989年、ハーバード大学客員教授に就任する。
1997年、東京大学工学部教授に就任する。
2003年、東京大学を定年退官して、名誉教授となる。
2005年、東京大学から特別栄誉教授の終身称号を授与される。

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受賞歴
1979年 - 日本建築学会賞(住吉の長屋)
1983年 - 日本文化デザイン賞(六甲の集合住宅ほか)
1985年 - 第5回アルヴァ・アアルト賞
1986年 - 芸術選奨文部大臣賞新人賞(中山邸ほか)
1985年 - 毎日デザイン賞
1987年 - 毎日芸術賞(「六甲の教会」)
1988年 - 第13回吉田五十八賞(城戸崎邸)
1989年 - フランス建築アカデミー大賞
1990年 - 大阪芸術賞
1991年 - アメリカ建築家協会(AIA)名誉会員、アーノルド・ブルンナー記念賞(アメリカ)
1992年 - 第1回カールスベルク建築賞(デンマーク)
1993年 - イギリス王立英国建築家協会(RIBA)名誉会員。日本芸術院賞
1994年 - 第26回日本芸術大賞(「大阪府立近つ飛鳥博物館」)
1995年 - 1995年度プリツカー賞、1994年度朝日賞、第7回国際デザインアワード、フランス文学芸術勲章(シュヴァリエ)
1996年 - 第8回高松宮殿下記念世界文化賞、第1回国際教会建築賞
1997年 - ドイツ建築家協会名誉会員、王立英国建築家協会ロイヤルゴールドメダル(RIBAゴールドメダル)、第4回大阪キワニス賞、フランス文学芸術勲章(オフィシエ)
2002年 - アメリカ建築家協会ゴールドメダル(AIAゴールドメダル)、京都賞思想・芸術部門受賞
2005年 - 国際建築家連合ゴールドメダル(UIAゴールドメダル)
他、著書多数。

2006/07/29(土) 大阪市立美術研究所・雑感 57
人間というのはどいう運命にさらされるかわかったものではない。牧口一二氏の場合がそうである。大阪美術学校卒業後、グラフィックデザイナーで活躍中、難病に罹り、松葉づえを必要とする身になる。しかし、氏の凄さはその難病から得た人生を語り、訪問した小・中・高等学校数は1600校を超えるという。98年「朝日社会福祉賞」受賞。現在、NHK教育テレビ「きらっと生きる」にレギュラー出演中) 

氏は障害者運動をやって30年、時々「社会は変わりましたか」と訊かれるらしい。変わった部分といえば、まちに出る障害者が圧倒的に増え、それに見合うように設備もかなりバリアフリー化されてきたこと。ただ、社会や人の心のなかにある「障害者観」は変わらない。言葉にこそしないけれど、障害者を一人前として扱わない人は今も少なくない。たとえばタクシーに乗ると運転手さんが「どこ行くん?」と子どもに問いかけるように話しかけてくる。ぼくはわざと社会問題を話題にふったりしてね(笑)。
 介護保険ができた時、重度障害者の自立生活運動を通じてぼくらが訴えてきた価値観が多少なりとも活かされることを期待しました。ところが蓋を開けてみると旧態依然とした障害者手帳の等級の決め方とあまり変わらない方法で介護度の等級も決められている。具体的にいうと、「一人で立てますか」「箸を持てますか」なんてことをチェックするわけです。そんなもの、どっちだっていい。最も大切なのは、個人の能力ではなく、その人がどんな人間関係のなかで生きているのかということ。手伝ってくれる人がいれば、一人で立てるかなんてたいした問題じゃないんです。この一件で、社会は障害者がなぜ必死に「自立」を訴えてきたのかをまともに受け止め、考えようとしてこなかったことがわかりました。

 日本の法律は、基本的に人間を信じていないように思います。それが一番よくわかるのは、障害を理由に職業や資格取得を制限する「欠格条項」です。法律で「あれはいけない」「これもダメ」と縛りをかける。多くの人は「法律は人を取り締まるものである」と考えているんですね。しかし本来、法律は「人を育てる」ものであってほしい。
 イギリスやアメリカでは、障害があって運転免許が取りにくい人がいれば「どうすればこの人が免許を取れるか」と国のほうが考えます。日本では「障害があるから危険です。もし誰かに危害を加えたらどうするんですか」という言い方をします。1人のために全員が我慢したり負担をかけられたりするのが許せない社会です。けれど1人のために100人がこぞって負担するということがあってもいいじゃないですか。「なんか計算合えへんなあ。でもやってみると気持ちいいなあ」と思えるのが"人間"。一見、不思議なことや割に合わないことを合理性の名のもとにどんどん排除していくやり方は味気も面白味もないと思いませんか。

 黒人解放運動のキャッチフレーズ、「ブラック イズ ビューティフル」に感銘を受けて以来、あちこちで「ちがうことこそ、ええこっちゃ」と言ったり書いたりしています。部落解放運動では「同じ人間なのに、なぜ差別する側・される側ができるんだ」という問題提起をしていましたが、ぼくはどう考えても障害のある人とない人が「同じ」とは思えなかった。見かけはもちろん違うし、やることも違う。第一、人それぞれ能力が違うでしょう。だから「同じ人間なのに」と言った時に、どうしても障害者は漏れるんですよ。「同じ人間なのに」と主張する限り、いつまでたっても障害者は置き去りにされるという危機感がぼくにはありました。そこで「障害を個性やクセとして考え、それぞれの違いをしっかり見つめるほうがいいんじゃないか」と発想したんです。ところが主張し始めた当時は「差別を生み出す"違い"を認めるとはけしからん」と批判されました。今は逆に全体的に「まず相手と自分の違いを認め合うところから始めよう」という流れになっています。そうなると今度は「ドロドロした問題があるのにきれい事で片付けられそうな危険性を感じる」と批判される。言葉って難しいなとつくづく感じています。だけど"違い"から見つめ合って交流すると、お互いが深め合えるし、第一、裏切られることがないでしょう。一見やさしい言葉ですが、知的障害者や寝たきりの重度障害者と「健常者」の"違い"も生き方が違うだけ、同じように生きる権利があるという主張をこめているのです。

 障害者運動は重度障害者の自立を主張してきましたが、自立と孤立は違います。ひとりでなんでもできるのが目標ではない。生後間もなくポリオにかかり、足に障害のあるぼくは、そのことを体中で感じて生きてきました。子どもの頃、ぼくをいじめた子もいたけど、一緒に遊んだ子もいて松葉杖を隠されたぼくをおぶってくれたりしました。嫌なことを言う奴もいれば、助けてくれる人もいる。つまり人間はそんなに悪いものでも特別いいものでもなく、「そこそこ」なんだと子どもながらに知っていました。だけど困っている人は助けてもらったことを決して忘れないものです。だからぼくは子どもたちに話をする機会があれば必ず言います。「誰でもええから困ってる人がいたら助けて。親切にするのは当たり前やから、君はすぐに忘れるやろ。だけど相手はきっといつまでも覚えてくれているよ」と。それに人のために何かできるというのは、自分にとっての喜びでもあります。
 最近、体も力も一人前の中学生に地域の防災活動に参加してもらう活動が始まっているのを知り、とても共感しました。高校生や大学生たちは昼間は地域にいませんが、中学生は「あそこにお年寄りがいる」「隣りに車椅子に乗っているお姉さんがいる」など地域をよく知っているからすぐに駆けつけられるでしょう。とてもいいアイディアですね。
 障害者をはじめ「弱い」立場の人たちを排除するという考えは、人間が人間であることを放棄すること。いろんな人が一緒に生きるのが社会の自然な姿だとぼくは考えています。

2006/07/28(金) 大阪市立美術研究所・雑感 56
 「子供のころ、 森閑とした山の中で背後に視線を感じたり、 突然の下草のざわめきに息をひそめた魔物の気配を感じて怖れおののいたものだ。 あのころは昔話や迷信が生きていて現実味をおびていたように記憶している。 夏の宵には稲妻光る雲の上で虎の皮着た鬼たちがせっせせっせと仕事にいそしむ姿を想像し、 冬の真夜中には山中の鬼たちが山を下り谷を渡り野と畠を駈けて寝静まった村々に迫り、 その鬼たちの息遣いが山あいの村にこだまするのを耳にしたようにも思った。
 あれからあの鬼たちは何処へいってしまったのだろうかと思いつつ、 夜な夜な酔っ払って帰る玄関のドア越しに愛すべき〈角〉をはやした妻の気配を感じたりするのだ。 」




岡田信美(おかだのぶよし)
1947年 奈良県天理市福住町に生まれる
1970年 大阪府立大学経済学部卒業
    大阪市立美術研究所
図書出版・科学新興社/株式会社造研など勤務

 素描力、 造形センスに卓越した作者が昨春勤めを辞め、 アトリエに閉じこもって詩情あふれる具象彫刻を続々と制作し、 この20年間に制作した旧作に混じってアトリエの棚を埋め尽くしつつあり。 この度、 その中からよりすぐり、 出発として10作品を展覧しようと企画、展覧会において好評を得るなり。
 

2006/07/27(木) 大阪市立美術研究所・雑感 55
 私が最初に絵を描いたり勉強したのが大阪であり、あの天王寺公園のなかの大阪市立美術館の地下の暗い研究所でした。
 そういうわけで大阪を中心とする京阪神にはこの修業時代の諸先生や先輩、同輩、また私を物心両面より支えて下さった多くの方がおられます。もっと勉強したいという気持から上京し、その三年後スペインに渡りましたが、その時勉強したゴヤ作品の模写を帰国と同時に松坂屋で展示してくれました。
 そのことが機縁で帰国後の第一回展ともいえる個展をすることになり準備してきましたが、なかなか思うような仕事が出来ず自分のグズさに腹を立てたりしているうちに早いもので帰国して二年半が経過、やっと最近自分では多少出来かけてきたと思えるようになりました。帰国後一番願ったことは、じっくりと腰を落ち着けた仕事「風土とそこに生きる人間」といったものに少しでも迫った仕事をということでした。
          *
 ところで、私が一番心配したゴヤ模写作品との併展については、併展することでかえって見る人に私の仕事に対する安心感を与えたようだ。また、私を支えてくださった人たちに少しお返しができたと思い、嬉しかった。それが私の自信ともなった。
 この時のオリジナル作品のうち、自画像「アラゴンを行く男」五〇号Pは新見美術館に所蔵されている。その他の作品は松坂屋の買い取りで人手に渡った。ゴヤの模写作品では、現在新見美術館にある一二〇号の婦人像「ラ・ティラーナ」も人手に渡りかけたが、松坂屋の方で「個人で所有するものではない」といって非売にしてくれた。

(中略)

 山岳列車と高山病

 南米ペルーの首都、リマ市には十日間滞在した。
 この間、目にしたのは中南米特有の貧しさというか貧富の差の激しさ。それに加えて物価高と非衛生さ。スペインでは感じたことがない失望感。リマ市に滞在中「こうして遙々とヨーロッパから回って来たが、今回の旅は私にとって間違いではなかったか。遠い国に来てしまった」という後悔の気持ちが続いたが、今さら、引き返すわけにもいかない。ここまで来たのだから、と元気を奮い起こし、一九七五年一月九日、国有山岳鉄道に乗車した。
 山岳列車は週三回、朝七時四十分に海抜七〇メートルのリマ市を出発し、かつてのインカ帝国の首都、クスコへ向けて高度差四千数百メートルを登る。
 初めてインディオたちと同席し、彼らと話したり、車窓に顔を寄せアンデス越えの景色に目を凝らした。私は初めての体験に緊張気味だった。列車は一体どうやって登って行くのか。峻厳なアンデスの連峰を頭上に見ながら切り立った断崖を列車はあえぐように行きつ戻りつ高度を逐次取って進む。
 高度千五百メートルを超えるあたりから私の失望感は吹っ飛んでしまった。それほどアンデスは新鮮で強烈だった。列車はさらに登って行く。海抜四七八一メートルのガラン駅(日本の富士山は三七五八メートル)の手前、チクリオ駅を通過するあたりの景は素晴らしかった。白雪の連峰と真っ赤な山々が連なる。その下に豊かな地下資源を埋蔵していると思われる赤さだ。スペインの山よりももっと赤くて美しい。山麓にはこの地方特有のリャマ(辞書を引くとリャマは「駱馬」)という大きな動物が白、茶、黒色の点の群れをなしている。列車に驚いて走り出す。それをインディオの牧童が追う。
 こんな標高三、四千メートルの厳しいアンデス山中にインディオたちは住んでいる。一体彼らはどうやって生活しているのだろうか。列車が停車する駅々には近くのインディオがジャガイモ、トウモロコシ、チーズ、果物などを売りに来る。停車中の列車を前に、ちょっとした市場が展開する。そこには生きた人間の営みがある。美しい絵を見るようだ。さらに加えて、彼らの売る物の値段はリマ市で私が知った価格よりずっと安く、これからの旅の不安感を消してくれた。
 今一つの不安は高山病だった。列車が海抜四七八一メートルのガラン駅を過ぎて下りに向かうころから車内を白衣の人が行ったり来たりしはじめた。枕のようなものを持っている。尋ねると酸素袋だとのこと。彼は特に小さな赤ん坊の容態に注意している。私は四千メートルを越えても何ともなかったので、自分の心臓は強いのだな、と安心して、酸素を吸う赤ん坊の様子を他人事のように珍しく見ていた。
 ところが、その私が急に目の前が白くかすみ、首を締め付けられるように呼吸が苦しくなった。寒気と吐き気を催す。深呼吸をしてみる。が、ますます苦しくなる。同席のインディオの親子に「白衣のドクトルを」と頼む。ドクトルは私の顔を見ながら「すぐよくなるよ」と言って酸素袋を私の口に当てた。「いっぱい呼吸しろ」。私は一生懸命吸っては吐き出した。おそらく何分もたっていないであろう。目の前が晴れ晴れとし、楽になってきた。ドクトルは「どうだ。もうよいだろう。誰でも最初はなるのだ。安心しろ」と言い、笑いながら「だが、もう一袋吸え」と、新しい袋と取り替えてくれた。大人で酸素袋のやっかいになったのは私一人だったので恥ずかしい気もしたが、気分がよくなり、別の車両に移っていたドクトルを捜して礼を述べた。「お前は日本人か」と尋ねる。この山岳列車に乗る日本人は珍しかったのだろう。終着駅に着く前に彼は「その後どうだ。多分頭が痛くなるだろうが、次第に治るから心配するな。では、よい旅を!」と言ってくれた。
 こうして世界の屋根、アンデスを無事越えた。インディオたちの生活に一歩一歩入って行くにしたがって、私の中にものすごい意欲が湧いてきた。「やって来てよかった。間違いではなかった」という感激が身体中を熱くした。後は略します。

画家・藤井哲氏のホームページです。
http://www.bihoku-minpou.co.jp/fujii1.htm

2006/07/26(水) 大阪市立美術研究所・雑感 54
 大阪市立美術研究所・卒の画家、藤井哲の代表作63点は故郷の岡山県新見市にある新見美術館に収蔵されている。なぜ代表作を新見美術館に寄贈したか。それまでどんな曲折があったか。ゴヤを追い求める遍歴の旅から独自の画風を確立するまでの半生を綴った自伝――。その一部を転載します。

藤井哲の世界 1

 半ば故郷を捨てた者への励ましのメダル

 自由人である私にとって一生に二度とないようなことが最近あったので書いてみます。
 この六月一日に私は郷里岡山県新見市の市制四十周年記念式典で特別表彰され、大変立派なメダル(テレビ等でよくみるオリンピック選手が貰うような首からさげる大きなメダル)をいただきました。紅白の帯に直径六センチ―大きいので計ってみますと―の重い銀製のもので、表に中世の新見庄の館を模して建てられた新見美術館の全景を刻み、市章と新見美術館の字を金色で浮かし、裏面には特別表彰、平成六年六月一日、新見市市制四十周年記念と刻印されております。
 ここに出てくる新見美術館は今年の秋で開館四年になります。開館する一年ほど前に市の美術館開設準備室の使者が度々上京され、結果、開館特別記念展「藤井哲の世界」展をやってくださることとなりました。
 秋の開館を前に、春、内装の終わった時点で一度館の壁面を見に行きました。私が想像していたより立派な美術館で、その環境の素晴らしいこと。中国山地の県北の地にこんな美術館が出来るなど誰も思ってもみなかったことでしょう。話によりますと決して簡単に出来上がったものではなかったようです。
 この中国山地の新見市は私の故郷で、現在九十一歳の母と兄夫婦も健在です。私は戦後シベリアよりこの故郷に復員し、一年ばかりですぐ半ば故郷を捨てたかたちで上京し、以後ほとんど帰ったことはありませんでした。自由人にはとても帰れるような経済的ゆとりも時間もありませんでした。
 東京日本橋の高島屋での個展の時、偶然にも私が岡山出身であるということで高島屋の岡山店でも個展をということになりました。当時父はまだ元気でした。六人兄弟のなかで私一人がはぐれ者で心配ばかりかけておりましたので、親孝行のつもりでやらせてもらいました。父はその後七十七歳で亡くなりますが、この時帰ったきりで、この美術館のことで故郷に呼び戻されるまでの十三年間帰ってはおりませんでした。
 こんな私が美術館が出来てからは毎年秋にはご招待いただき、「私の歩んできた道」等々、館でお話させていただくようになり、私と故郷新見との関係が深まって、昨年は開館三周年記念展も開いていただきました。館の特別展のない限り「藤井哲の世界」の一室を設けてくださったりして、展示しながら作品を大切に扱ってくださっておりますので、数年前に寄託した作品を寄贈に切り替えさせていただきました。勿論ゴヤの作品の大作模写四点も含んでのことで、大作を中心に約六十点ほどになります。
 三年前でしたか、市側より私を黄綬褒章受賞に推薦するため使者が来られましたが、私は充分新見市の皆様には作品を大切にしていただいておりますので、それ以上のことを望んでいないと率直に申し上げました。当初より連絡で来ておられ、私の気質も充分ご存知のO氏なので、私は「文化勲章でも辞退される方があるではありませんか」とずいぶん勝手なことを言って、ご辞退申し上げました。
 この翌年、またO氏がその件で来宅されましたが、私の辞意のかたいこと、新見市の皆様に大切にしていただいており、それ以上の名誉はない旨申し上げました。が、結局、市と美術館の当事者の方々が私の気持ちを受け入れた上で、今回のようなかたちをお考えになったものと私は推察しております。
 先方からの電話で事情の説明と六月一日の式典に是非帰って来るようにとの連絡を受けた時は、私も素直に「どうもありがとうございます」とお受けしました。
 説明が長くなりましたが、半ば故郷を捨てた私に対して贈られたこの一点もののメダル、心よりありがたく思うと同時に、今後の私の仕事に対する責任と大いなる励ましを強く強く身近にかんじさせております。感謝!
     (『界隈通信』一九九四年八月二十五日号から転載)

2006/07/25(火) 大阪市立美術研究所・雑感 53
一九六四年三月に、彼は初めて個人誌『漂泊』を出す。この個人誌の目次欄に支路遺は、ランボーの「見者の手紙」から、いくつかの言葉を引用して載せている。<詩人たらんとする者の第一歩は、全面的に自分自身を知るにある>、十九才の早熟な若者が、個人誌にランボーを記すのは自然のなりゆきかもしれない。私が十九才で個人誌『迷える羊』を出して二年後に支路遺は、私と同じ歳で『漂泊』を出した。だが私は自分の個人誌にランボーではなく宮沢賢治を記している。漂泊と迷える羊という近似した心の在り様ではあったが、選びとった献辞が異なるように、やがてそれぞれの生きざまは違ってくる。支路遺はこの個人誌を出してから間もなくして、突然大阪に帰ってくる。そして個人詩誌『漂泊』は、『漂泊から』に誌名を変更して刊行されることになる。いま私の手元に残されている個人誌『漂泊から』は第六号だけだが、『漂泊』に掲載された作品とくらべるとこの六号に載っている詩はダイレクトに詩集『疾走の終り』につながっていく走法を身につけている詩群である。そしてこれらの活動を経て、『他人の街』(一九六六年)が創刊されることになる。そしてすくなからず、『他人の街』に影響を与えたのが『凶区』であった。天沢退二郎、鈴木志郎康らが同人の先鋭的な雑誌だった。『凶区』を手にした支路遺は嬉々として私に電話してきた。薄い雑誌だったが、中身はまるで機関銃が詰まっているような感じを受けたのを覚えている。その後鈴木志郎康は『他人の街』にたびたび原稿を寄せることになる。支路遺が、「映画論」や「都市論」に筆をすすめるのも、このへんの影響だった。本来彼は詩論を振り回す詩人ではなかった。それは支路遺にかぎらず、当時の大阪の詩の書き手は、おおかたそうだった。ある日、彼のところに東京から二人ほど詩人が訪ねてきていた。私も同席していたのだが、支路遺も私も彼らの理論についていけなかった。二人がかえった後、しみじみと支路遺は言った。「俺に欠けているのは、やっぱり理論やなぁ…。あいつらみたいには喋られへんもんな!」その二人の詩人が誰だったのかは、まったく思い出せない。それにしても、なぜ『他人の街』だったのかをは支路遺に問いただした記憶がない。尻無川をはさんで、同じように中小企業が軒を並べている下町に住んでいた私たちにとって、それはかならずしも愛すべきわが街ではなかった。埃っぽくて一日中騒音が絶えない、無神経で無頓着な町…。たしかにそこに暮らす人たちは、お節介好きでお喋りで、愛想がよくて気軽な人々だった。だが、私も支路遺もどこかで、そこから抜け出したいと必死だった。孤独は寂しかったが、嫌いではなかった。寂しがりながら嫌いではない孤独をぶらさげて、理屈よりも先に言葉が噴き出していった。会う理由がなくても二人は頻繁に会った。会えば孤独が癒されていた気がする。会えなければ電話で一時間も喋っていた。けれど何故か彼は寡黙だった印象が拭えない。当時、彼よりも私の方が無口だった。人と喋れない病気だったからだ。それでも彼とは必死に何かを伝えあっていた。詩集『疾走の終り』が出た直後ぐらいに、NHK教育テレビで、「疾走の青春」と題した一時間の特集が組まれた。その録画撮りの日、「志摩、おれ、ひとりで行くの嫌やから一緒に行ってくれ…」と頼まれた。その日私は終日、スタジオでの録画撮りに付き合った。支路遺耕治にとって『他人の街』とは、いったいなにを指し示すものだったのだろう。彼とは飽きることなく街を徘徊したのだ。通天閣とその界隈や美術館横の半蔵門など、よくスケッチに歩いた。また関西のジャズ喫茶はことごとく回ったのではなかったか。この辺については、別の機会に論を譲ることにする。支路遺との交友の思い出はつきることはないが、いろんなことが錯綜しているので、もうすこし整理しないと書けないところもある。また彼を詩人・支路遺耕治として捕らえることと、絵を描き続けた川井清澄として綴ることとには視点の持ちどころが違うので、いくつかの章に分けて書く必要もありそうだ。いずれにしても今回は、詳細な考証は省いて走馬灯的に書きつづるしかなかった。ただ彼との出合いが絵で始り、最後に彼と会うのが昨年五月の大丸・心斎橋店での私の個展会場だったことと、一九八九、九○、九一年の三回にわたって彼の個展のプロデュースを私が手がけたことなどを考えると、最後まで絵を描きつづけたいと願った川井清澄こそ私が綴らねばならない友の姿かもしれない。けれど残念なことに、私は彼の最期の個展を見ることができなかった。私の個展の日程と重なっていたためだが、彼が癌に犯されていたことを知っていれば、無理をしてでも出かけたことだろう。それが心残りではある。
 彼は一見、破天荒で攻撃的で破壊的な表情を漂わせていたが、いつも律義で、優しさを内に秘めていた。彼が生涯合わせ持っていた暗さと優しさはどこからくるのか…? 六十年代から七十年代にかけて支路遺耕治が果たしたその詩の評価と、人と文学の内実が時代の持つ示唆だとしたら、彼が疾走を果たし成熟に向かったのも、その時代が内包していた側面だった。時代や権力に刃向かった多くの若者にとっても社会への属辞化は幻想の崩壊とともに始まっていた。「疾走と成熟」という二律背反を課した支路遺の生き様は見事と云うほかない。

2006/07/24(月) 大阪市立美術研究所・雑感 52
画家・志摩 欣哉氏の回想は続く・・・
この時、彼が支路遺耕治と名乗ったか川井清澄と名乗ったかは憶えていないが、たぶん本名を言ったと思う。彼は最初から最後まで絵を発表するときだけは本名の川井清澄だった。ある時期から彼は支路遺耕治の名を使用しなくなった。それは大阪市大正区の千島団地の公団に独り住まいを始めてからタクシー・ドライバーなどを経て会社勤めを始めた時期にあたる。これ以後のことについては別稿で述べることにするが、ある日、「就職するから保証
人になってくれへんか…」と言ってきたので、「どこに勤めるんや!」と聞くと「おれ、喋るの苦手やから葬儀屋やったら、あんまりしゃべらんでええしな…」すこし苦笑いしながら言ったのを思い出す。たしか、それから一、二年ほどしていったん退職するが、請われて同じ会社に戻った。そのおりに私が再び保証人になったと思う。これをさかいに彼の詩作活動は急速に少なくなっていった。だがこの頃の彼からの手紙を読むと、そのことへの焦燥感のようなものを感じとることができる。けれど彼は決して会社を辞めなかったのだ。それは単に生活のためだけではなかったのだ。彼が気付いたときには、すでに彼は会社の中で重要な立場になっていた。「…辞めて絵や詩をもっと書きたいけどな、そう簡単に辞められそうにもないしな…」と何度も彼の口から聞いたことがあった。それでも彼は絵筆を離さなかった。「月に一、二度ぐらいしか休みとられへん…」とこぼしながらコツコツと彼は絵を描きつづけていたのだ。会友だった新世紀美術協会には毎年のように出品していたし、定期的には個展を開いていた。おそらく彼は死ぬまで公私ともに多忙に生きたにちがいない。支路遺耕治という詩人が、『疾走』という命題を駆け抜けて一時代を締めくくり、本名の川井清澄へと成熟の季節を自己に課した姿は見事というほかない。その中でどれだけ揺れ動き渇き夢みても、彼は若き日の自分を反芻することは避けていた。ただ彼は、十代の頃に抱いた表現することの重さを捨てなかっただけかもしれない。だからこそ死の床にあっても油彩画を描き続けたいと願った。それは執念ではない、唯一の存在の証しを求める渇望にすぎない。だが皮肉にも彼は画家・川井清澄としてでもなく、あの伝説化すらはじめた詩人・支路遺耕治としてでもなく、一企業の有望な役員として惜しまれながら不帰の人になった。おそらく成熟とはそう云うことなのだろう。だが若き日の彼には、その片鱗すら感じられなかった。言ってみれば攻撃的で破壊的ですらあった。振り返ってみると、彼と私の交友は大きくわけて三期に分かれる。一九六二年頃から一九七二年頃までの十年間が、その第一期にあたり、彼を詩人・支路遺耕治として語るべき時期にあたっている。この間に、リトルマガジン『他人の街』が創刊され、彼の詩人としての活動が絶頂期に向かっていく。そして他人の街社として、彼が手がけた詩集やエッセイ集が送り出されていった。それらの中で詩集『疾走の終り』が誕生するには、まず彼の友人でもあった恵口丞明の詩集『チベベの唄』の出現が必要だった。支路遺耕治はこの詩集に強い衝撃を受けている。その恵口丞明もすでに他界してしまった。当時、支路遺の周囲には多くの人が集ってきた。ここでそれらの人たちの名前をあげる余裕はないが、誰かがそれを市岡ルネッサンスと名づけていた。支路遺が『他人の街』を創刊するまでには、幾つかの同人誌や個人誌を経なければならない。私と彼とまず始めた同人誌は、『ひろば』という詩誌だっ
た。彼と出会って一年目ぐらいに創刊したと記憶しているが、この雑誌も行方不明になっている。『ひろば』が何号まで続いたか記憶にないが、この同人誌が支路遺の出発点であった。そしてこの詩誌を継続している最中に、突然彼は東京に行くことになる。
一九六三年一月、東京都杉並区清水町一八九、桜荘七号に身を落ち着けた支路遺からハガキが届いた。「見送り有り難う。雑誌今後どうするのですか。くわしい事を、お知らせ下さい。僕も君の進んだ東京の第一歩を歩んでいる。今度、会う時、詩も、少しは、みれるようにしておきますから… 今後どんな事になるのか知りませんが、できるだけやらねばしかたないだろう。十四、五日からボーイの仕事をしようと思っている。風邪で長文が書けないので、今日はこの辺で」

2006/07/23(日) 大阪市立美術研究所・雑感 51
ウハァ・・・・倉敷天領祭りだ・・・

そして行方不明の放浪似顔絵師・葵君との再会。
実に生きていることが楽しい、幸せな一日でした。

2006/07/22(土) 大阪市立美術研究所・雑感 50

それからは美術研究所を素通りして、伶人町にあった夕陽が丘図書館通いが始まった。ここは早く行かないとすぐ満員になるので開館を石段の座って待っている始末である。
しかし、そこにはホッブスの「市民哲学要綱」 アダム・スミスの「国富論」 ルソーの「人間不平等起源論」カントの「永久平和論」 ヒューゴー・グロティウスの「戦争と平和の法」等等垂涎の出るような本が65万冊以上揃っていたのだ。今は全て忘れたが、変にトルストイの「こう物質文明が精神を圧倒すると、隣同士、親子、親戚などで「お前が俺を殺すか、俺がお前を殺すか」という時代になるであろう、という言葉だけ脳髄に染み渡っている。
 その図書館でよく見かけたのが支路遺耕治と志摩 欣哉氏であった。ここは志摩 欣哉の文を無断でお借りすること諒としてください。
 支路遺耕治(本名・川井清澄)と初めて出会ったのは、天王寺にある大阪市立美術館の地下に在った美術研究所の廊下に置かれていた長椅子だった。当時彼は十七才で私が十九才だった。俯き加減の暗い表情で知人と喋っていた。その知人が誰だったか思い出せないのだが、私とも顔見知りで彼から支路遺を紹介された。「東京に行ってたんやけど、金のうなってしもうてな、どこにも行かれへんでホテルに籠ったきりで、しょうがないから、帰ってきてしもうたとこや…」、と俯いてボソボソと喋った。だが奇妙に威圧感のある喋りかただった。「絵描いとんのか?」と私が聞くと、「ああ…。自分は?」
 と顔を上げて聞き返した。「うん、俺も絵描いとるし、詩も書いとる」と答えると、「詩書いてんのか!俺も詩もっと書きたいんや」と急に表情が輝いた。このとき私は十代の後半に書いた詩を纏めて、薄っぺらな個人誌『迷える羊』を、十代の終わりの記念として出していた。たぶん、この私の個人誌がきっかけで、研究所の仲間たちで同人誌『じゃがいも』が発足する頃にあたっていた。この同人誌は、ながれひろしが中心になって六号ぐらいまで出たと思う。残念なことに、私の個人誌も『じゃがいも』も紛失してしまって手元に無いが、同人に支路遺も入っていたし、今井祝雄らがいた。今井は現
 在のアートシーンでも活躍している作家だが、当時からフォンタナの影響を受けた作品を作っていた、もっとも先鋭的な存在だった。後に支路遺耕治を支路遺耕治たらしめる詩集『疾走の終り』及び『増補・疾走の終り』の表紙デザインを手がけるのが、この今井祝雄だった。またながれひろしは、具体グループの村上三郎氏を師と仰いでその影響下にあったし、私はアメリカ・ポップアートとシュールレアリズムのはざまで揺れ動いていた。やはり後に私は彼の詩集『巨影なる断章』の表紙デザインを担当している。友は最後まで表現することに拘りながら肺癌で逝ってしまったが、彼と出会った当時、私は肺結核に犯されて自宅療養しながら研究所に通っていた時期だった。丁度、六十年安保から七十年安保へと時代が捩れていくときであ
った。「詩を書きたい!」と言った彼としばらく話を続けていたが、突然、彼は「いまから、展覧会見に行けへんか!」と私を誘った。「誰の展覧会や」「村上日出夫や!」と言った。この画家は当時ゴッホの再来と言われていた。美術雑誌などで紹介されていたので私もよく知っていた。貧しくて浮浪者の
 ような生活していた村上は、乏しい金銭をはたいて絵の具を買い、それに泥を混ぜて絵を描きつづけていた。その作品を銀座通りにならべて売っていたところを、兜屋画廊のオーナーに認められて一躍時代の寵児になった男だった。言ってみればシンデレラ・ボーイである。さっそく彼と二人で、まだ日本橋二丁目にあった松坂屋にでかけたのだった。この日から私と彼の交友が始まった。

2006/07/21(金) 大阪市立美術研究所・雑感 49
夕陽丘図書館の前身は旧大阪府立図書館天王寺分館であり、その母胎は大原社会問題研究所(現法政大学大原社会問題研究所)である。
 夕陽丘図書館の歴史を語るとき、旧大原社会問題研究所との関係をひもとかざるを得ないので簡単に記すこととする。
 岡山県倉敷の素封家、故大原孫三郎(初代倉敷紡績社長)は、大正8年9月、四天王寺末寺「秋の坊」の敷地を購入して大原社会問題研究所を設立した。
 日本における統計学の先駆者で東京大学をある事情で辞職した高野岩三郎博士を所長に、後の文部大臣を務めた森戸辰男、経済学者の大内兵衛、久留間鮫造、櫛田民蔵等の優秀なスタッフにより、社会問題、労働問題等を科学的に研究し幾多の実績を残した。
@ 資料の充実
  一般的な基礎資料を幅広く収集し、専門的な資料については大原文庫との関連上、従来どおり社会科学分野に重点をおき蔵書の特色を維持する。
A 市町村に対する補完サービス
  昭和26年から実施してきた移動図書館車による巡回サービスを続けるとともに、この数年来活発になってきた家庭文庫、地域文庫に対する貸出を行い、地域における読書普及を図る。
B 児童サービス
  内外の児童図書を収集し、児童に対する直接サービスを行うとともに府下公共図書館と協力の上、児童図書館員の養成と資質の向上を図る、また、研究者の実践研究の場として児童文化の向上と児童図書センターとしての役割も果たす。
(なお、この項目は昭和50年7月、児童室開室にあたり設けられた。)
C 特許資料、科学技術資料の整備
  従来、中之島図書館で収集してきた内外特許資料、科学技術資料は、技術研究者にとって貴重な文献であり特に外国特許資料は国内では特許庁資料館と当館にしか所蔵されていないので、有効適切な運用を図り、関西西地区の科学技術資料館としての役割も果たす。
D 身体障害者に対するサービス
  肢体不自由あるいは視覚障害というハンディキャップを負っている府民にも、図書館のサービスはおよばなければならない。当館では、図書の「郵送貸出」および視覚障害者には「対面朗読」を実施するとともに点字による「新着図書目録」を作成する。
 大阪府立図書館天王寺分館から引き継いだ蔵書は、大原文庫の約6万2千冊を含め約20万冊であったが、その後の熱意ある収集努力により、特許資料を除いて約65万冊に達した。
 児童サービスは充実の一途をたどり、外国絵本の収集は約8千冊となり、府下市町村図書館は勿論研究者の方々からも高く評価されている。特に、英米の絵本は価値あるものといわれている。
 特許資料、科学技術資料の収集・整理・閲覧サービスも多くの利用者から資料調査の利便性を讃えられ、西日本は勿論東海、関東からもわざわざ当館にきて調査する利用者も少なくなかった。
 利用しやすい独特の整理方法は高い評価を受け、特許庁からも多くの職員が研修を兼ねて来館し、特許庁長官は着任するたびに視察された。
 身体障害者サービスのうち、目の不自由な人たちに実施してきた対面朗読は、朗読奉仕者の資質の高さと豊富な資料を持つことにより、その評価は特筆されている。
 一例を上げると、インドの村落共同体を研究する大学の教授は、その資料を求めて我が国の国会図書館や各大学図書館に問い合わせても所蔵していないため、インドヘ行って直接資料を探したが見つからず、あきらめかけていたところを大原文庫の目録で発見し、大原文庫のレベルに驚嘆された。
 また、ある教授は、数年間にわたり東京から新幹線で当館に通い、その研究成果を上梓した。
 この教授は、ことあるたびに大原文庫の貴重さ、重要さを称え、職員の対応に感謝の意を表された。
 このような研究者はたびたびあり、全国各地の大学から文献複写の依頼は数えきれないほどであった。
 利用者から感謝されることも多かったが、反面、苦情も少なくなかった。
 閲覧席は学生の利用が多く大概満席で、一般の利用者から入館制度のあり方かを問われることも度々で、また、ここ数年、ホームレスの人たちが大変多くなり、利用者から多くの苦情も出てその対策に苦慮したことである。
 多様化する府民の要望に、夕陽丘図書館が22年を有してやっと何とか応えられる態勢になってきたとき閉館となり、館名が消えてしまうことに一抹の寂しさはあるが仕方あるまい。
 図書館の評価は、第一が蔵書量であり、二番目は職員の資質である。このことは一朝一夕に培われるものではなく、永い年月を要するものであったであろう。

 今また大原孫三郎氏の偉大さが、歴史の中に光彩を放っているのに驚かざるを得ない・・・・

2006/07/20(木) 大阪市立美術研究所・雑感 48
 社会が60年・70年になると騒然としてきて、美術研究所でノホホンとデッサンをしている時ではなかった。況や、俺の下宿している阿倍野の奇怪荘の三階にベ平連の「なんだいべ」があり、足しげく、作家の小田実氏が来ていて、私も氏と一緒に朝日ジャーナルに載ったことがある。
べ平連【べへいれん】とは「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」の略称であり、1965年に、小田実、開高健、鶴見俊輔、堀田善衛らが創設。おとなしいデモや討論会、反戦広告,米兵の脱走援助などの活動をした団体である。
 骨のある連中は東京のアメリカ大使館へのデモ行進を行ったのを始まりに、作家の開高健の発案で米紙ニューヨーク・タイムズへ1面を使った反戦広告を掲載、1967年4月には画家岡本太郎・筆の“殺すな”と大書された文字の下に英文のメッセージをデザインした反戦広告をワシントン・ポストに掲載するなど、その活動も既成の市民運動の枠を大きく超えたものであった。
 思想を嫌う俺でも、これまでの既成組織(左翼政党や労働組合)が中心になって行った教条的で閉鎖的な市民運動とは違い、政治的信条や思想を問わない「来る者拒まず、去る者追わず」のしなやかな活動姿勢故にその中にのめり込んでいくのである。
 今でも思い出すのは「なんだいべ」に匿っていたイントレピッドの脱走兵が「ニホンニホコルノハ、ケンポウ九ダケ。コンドノアンポハ、チンポヌキ、キンタマダシノジャウヤク、ワルイデス」と言われ、すぐ上京、反戦運動に身を投じるのだ。
 勿論、似顔絵を新宿上野公園で描きながらだが、その日は浅草の「酉の市」で骨休みにヌードでも見るかと、浅草フランス座にいくと、エレベータ・ボーイが文庫本を熱心に読んでいて、我々を屋上まであげ、口論になったのである。そのエレベータ・ボーイが売り出し前のビート・武とその日、三島由紀夫氏が自衛隊総監
室で割腹自殺遂げたので奇妙に覚えているのである。
また東大在学中の江田五月氏が自民党総裁室に乱入、逮捕され、親父の助言で外国の大学へ追放されたのもこのときであろう。所詮、火炎瓶程度では世は変えられないと、俺も帰坂、また通うのであるが、そこは大阪美術研究所近くにある「夕陽丘図書館」であった。その前身は旧大阪府立図書館天王寺分館であり、その母胎は大原社会問題研究所(現法政大学大原社会問題研究所)であったのだ。

2006/07/19(水) 大阪市立美術研究所・雑感 47
1950年代大阪美術研究所卒・村岡三郎ら・草間弥生・河原温ら4人展-東京国立近代美術館

 東京国立近代美術館(千代田区北の丸公園3-1、03-5777-8600)は5月30日から7月30日まで1950年代にデビューした4人の作家を取り上げた「持続/切断-毛利武士郎・村岡三郎・草間弥生・河原温」を開いている。毛利武士郎(1923−2004)=写真=は東京美術学校彫刻科を卒業したが、作品が少なく彫刻界では「沈黙の彫刻家」と呼ばれたとされている。村岡さんは1928年大阪生まれで、大阪市立美術研究所彫刻部修了し、1965年「第1回現代日本彫刻展」で「K氏賞」を受賞、1993年京都精華大学教授、1999年「第40回毎日芸術賞」を受賞し、現在、滋賀県大津市に在住。草間さんは1929年長野県生まれ、1957年にアメリカに渡り、1968年に自作自演の映画「草間の自己消滅」が第4回「ベルギー国際短編映画祭」に入賞、「第2回アン・アーバー映画祭」で銀賞を受賞した。1973年帰国し、1983年に小説「クリストファー男娼窟」で第10回「野生時代新人賞」を受賞した。1996年からは主にニューヨークのギャラリーを中心に活動し、同年開いた2つの個展はそれぞれ「国際美術評論家連盟」から賞を受けた。2000年には第50回「芸術選奨文部大臣賞」を、2001年には「朝日賞」を受賞し、2003年には「フランス芸術文化勲章オフィシェ」を受勲した。河原さんは1933年愛知県生まれ、1950年代に「浴室」シリーズ、「物置小屋の出来事」シリーズなどが評判を呼んだという。1959年アメリカに渡り、1962年までメキシコに滞在し、1963年からアメリカに滞在、「記号絵画」を制作した。1966年には「日付絵画(date painting)」(Todayシリーズ)の制作を始めた。その後、、インタビューにも応じず、写真もないなど実像は謎といわれている。同美術館ではこれら4人の作家について、「1950年代というまとまり、あるいは1980年から1990年代というまとまり」という前提で区切り、「作風のかなり異なる作家たちでありながらも、作品の背後に横たわる、1つの”時代性”を興味深い形で看取」できるとしている。開館時間は10時から17時(金曜日は20時)で休館日は月曜日(7月17日は開館、翌日休館)。観覧料は一般420円、大学生130円、高校生70円、小中学生・65歳以上無料。

2006/07/18(火) 大阪市立美術研究所・雑感 46
「畸人」とは紀田順一郎氏によると「畸」とは田を作る時、地勢の関係で正方になれない「余り」のことを言い、転じて数の割り残ったものを指す様にになったらしい。それを人間の「割り残った者」にあてはめたのは中国の荘子あたりが最始だといわれている。 
 日本では江戸後期の寛政二年に伴晃渓によって「近世畸人伝」が著されている。同書では浪人、職人、神職、坊主、儒者、歌人、画家、遊女と多様な人々の紹介が掲載されている。
 身分制度が画一化、類型化した生き方を要求された江戸時代にこそ、伴は「独自の生き方した畸人」にあこがれたかわかるような気がする。世間に拘束されずに、自由に生き抜く畸人たちを見るにつれ、己自身も大きく「解放感」を味わえるからだろう。
 思考するに現代も閉塞状況で真の「畸人」の出現を待望しているのではないか。「畸人」たちの予想外の行動や独創力に富んだ主張に触れ、我々は如何に、様々なことに縛られて生きている自分に気付くのだ。そんな自分を恥じ、謙虚になることで「よし、がんばるぞ」という思いを抱かせてくれるのが「畸人」の存在なのだ。もう大学教授や日展系の画伯たちには聞きあき、見飽きてしまったのが現代の状況ではないか。故に私は「畸人」といったら失礼かもしれないが、あえて下手糞な文もかえりみず書き綴っているのである。

画家・吉原英雄氏は同一の版をユニットにして数点を組み合わせ、1点の時とは違う効果を狙う作品を多く制作している。このユニット方式は、組み合わせることによって初めの予想とは違った空間の出現を意図して考え出され、組み合わせを変化させることによって、表現のバリエーションを飛躍的に拡大することが可能となった。この方式はリトグラフとエッチングを併用することで一層効果を高めている。
 この作品もユニット方式で制作されたものである。「一人の人物の環境の違う状況を組み合わせた。この一人の女の無限の状況があることを4枚のユニットで暗示したかったので、同一の銅版の女を使った」と制作意図を語っている。
 4つの画面には、同じ後ろ姿の一人の女性が、それぞれ異なった室内描写を背景に描かれている。「風にゆれるカーテン」「ソファーの上の猫」「タオルのかかったシャワールーム」「テーブルを挟んだ二つの椅子」、これらの情景は、彼女の生活の一部を表現しているとともに、吉原が無限の状況と言っている生活全般を暗示しているのであろう。
 吉原英雄は1931年広島県に生まれた。大阪府立天王寺高校を卒業し大阪市立美術研究所に学んだ。具体美術協会、デモクラート美術科協会、日本版画協会などの会員となるが退会。東京国際版画ビエンナーレ文部大臣賞、現代日本美術展優秀賞、芸術選奨文部大臣新人賞などの受賞を重ねる。京都市立芸術大学で長年後進の指導に当たり多くの版画家を育て、現在はリトグラフや銅版画を併用し、クールで緊迫感に富んだ作風を展開している。

今後、期待したい。

2006/07/17(月) 大阪市立美術研究所・雑感 45
 またメールいただいた。「大美」は変わり者ばかりだな、というのである。私は前にも申したように「大美」を出て、芸大教授とか、絵画教室などやっている方には興味がなく割愛しているだけで多くの先生?方がおられる事を付け加えておきたい。
 ただ「創造者」とは「畸人」にならざるを得ないのだ。「畸」とは土地制度において、田を「井」の形に整地した場合、残余の部分を指すのであるが、これを人事になぞらえて、中国の荘子はすごいことを言っている。「畸人なるものは、人に畸なれども、天に等しい」つまり畸人は俗世においては畸だが、天から見れば正しい人ではないか、というのである。
 そういう意味でいまなお「大阪美術研究所」に畸人の水脈が枯渇せず継承されていることに、ここ出身の私自体、大いに感銘を受ける者である。
 現代日本の閉塞状況下において100パーセント「己」を貫徹しえるものは畸人しかない。「畸人すなわち、はぐれ者が己人なり」と言うのが私の終始した、探し当てたテーゼあるからである。

 赤松輪作と同期の画人だが村上華氏などは典型的な畸人で今、なお光彩を放っている。
1888年7月3日、大阪天満松ヶ枝町に生まれる。本姓武田、甲州武田氏の末裔。本名震一。

1895年神戸市神戸尋常小学校に入学。叔母村上千鶴子の婚家、村上五郎兵衛方に寄居する。1903年京都市立美術工芸学校へ入学。1904年村上家を嗣ぐ。

1907年大阪美術研究所創立に参加。1916年京都市東山高台寺円徳院に住む。1917洛北衣笠に転居。この頃仏画に筆を染め、静物、風景等を多く描く。

1918年国画創作協会(国展)を結成。1923年京都を去り、神戸に帰り、芦屋に隠棲。

1925年タゴール翁と識する。「タゴール像」を素描す。国展第五回に「松巒雲煙」出品。1926久邇宮家の献上画を制作。
1927年神戸花隈の旧居に帰る。此の頃より画壇を遠ざかる。以後制作は多いが公表は少なくなる。1934年華岳作品の憧憬者が集り、各自その収蔵作品を持より東京永楽倶楽部に於て展列を行う。

1935年帝国美術院第一部無鑑査となる。1936京都美術倶楽部に於て、友人達が作品百余点を展示。

1939年11月11日、神戸花隈の家居に於て宿痾に悩みながらも「牡丹図」に加筆するため礬水びきをするが、その夜遂に永眠する。享年51才。

華岳は山岳の絵を「山水菩薩」と呼んだ。魂を込める点で仏画と変わりがないからだ。華岳にとって山水画を描くこともまた修行であった。

2006/07/14(金) 倉敷市立美術館で院展始まる

倉敷市立美術館
平成17年7月13日(水)〜
7月24日(日)
会期中無休
午前9時から午後5時
(最終入場は午後4時30分)
(7月13日は午前10時開場)
前売700円 当日900円
(発売日:4月26日)
今年で4回目の開催となる「春の院展 倉敷展」。片岡球子、平山郁夫をはじめとする現代日本画の最高峰をぜひ一度ご鑑賞ください。


2006/07/13(木) 大阪市立美術研究所・雑感 44
 今日もテレビで「子供たちの見回り会」が発足したとかで、子供が「何時も私たちを暖かく見守ってくださりありがとう」云々の映像が流されていた。主婦や警察のOB、中には岡大のグループも居て、本当にご苦労さまという気持ちになれないのは私一人だけであろうか。
 生徒の登下校時になると幼稚園や小学校の校門の前に車がズラッと並び、そこから塾でも行くのであろう。結果、全てシスマティックに整備され、人々は己だけの関係性に閉じこもり、社会の共同性は薄れ、孤立化したカプセルはシュミレーション習俗のプレート上でのみ、より豊かな生活や高い学歴を求める脅迫的な「幸せ競争」追い立てられていくようである。
 私はそういう光景を「ポカン」として眺めながら、芥川龍之介の「カエルの話」を想起した。それはある池にカエルが住んでいるのだが、時々、ヘビにカエルが襲われ犠牲が出る。そこでヘビにカエルが襲われないにはどうしたら良いか、という相談になって、結局、池の周囲に金網を張ることになった。それを聞いたサーリブッダみたいなカエルの長老が「そんな事をしたら、この池はカエルが増え過ぎてそれこそ全てが絶滅する。時々、我々の仲間が犠牲になるのも全てを生かすことに相通ずるのじゃ」という意味の事を言う。つまり生物の密集斃死であり、全ての自然は自然淘汰の中で生き永らえているのだと。
 ところが幹部連中は長老の話しなど無視して今度はトンビにカエルが襲われたことによりドームを作ってしまう。池の周りをコンクリートにする。巣穴を高層ビルにし、監視カメラまで取り付ける。食料は他所の池から輸入する。全てカエル至上主義において改革していくのであるが、確かに住みやすい。しかし、どうも呼吸困難とある種のカエルは気付き、その連中は一刻の安らぎを求めて他の池に旅に出るのだ。
 ところがその後、この池はどうなったかと言うと、池の魚は白い腹を空に向け絶滅し、無論、カエルも全て死に絶えたという話である。この寓話が未来の日本を具現していなければ良いのだが、どうも小生には営々としてその方向に突走っているように思えて仕方がない。
 「貴方は何方ですか?」と三人の腕に腕章を巻いたご婦人に声をかけられ我にかえったが、彼女らは怪獣のように見えて仕方なかったよ。

 そこで怪獣専門に描いている黒川みつひろ氏を紹介する。


プロフィール
1954年、大阪府生まれ。大阪市立美術研究所で絵を学ぶ。児童向けイラストレーターとして活躍し、絵本作家に。古生物研究が趣味。主な作品に『恐竜たち』『恐竜の谷』(こぐま社)、『絶滅動物の絵本』シリーズ(童心社)、『恐竜の大陸』シリーズ(小峰書店)などがある。また、たたかう恐竜たちシリーズの新刊『恐竜トリケラトプスとアロサウルス』(小峰書店)が出版される予定。


2006/07/12(水) 大原美術館・特別企画展へ・・・
私は大阪天王寺美術館のことばかり書いていました。こちら大原美術館も昨日から「特別企画展」開催されました。

■インパクト
 東と西の近現代―もう一つの大原美術館

1920年代、児島虎次郎が西欧から持ち帰った美術作品。また、日本近代美術史を規定するほどの質・量を誇る、第二次大戦後に大原總一郎によって収集された日本近代美術。
これらが大原美術館という窓口を通じて、日本においてどのようなインパクトを与えてきたのかを、初公開作品多数も含め所蔵作品による十の企画展示でご紹介します。

[会期]7月11日(火)〜11月5日(日)
[場所]大原美術館本館、分館

■第32回 美術講座
インパクトへの醒(めざ)め―19世紀末の胎動
【7月29日(土)】
10時〜12時  歓楽と憂愁の都パリ
           高階秀爾(大原美術館館長) 
14時〜16時  回生の十字路―北方ヨーロッパの世紀末
           水沢 勉先生(神奈川県立近代美術館企画課長)
【7月30日(日)】
10時〜12時  ハイ&ロウ/世紀末の芸術と大衆文化
           鹿島 茂先生(共立女子大学教授)
14時〜15時  『インパクト/東と西の近現代―もう一つの大原美術館』へのご招待
大原美術館学芸員によるレクチャー その後大原美術館自由見学

[場 所] 倉敷アイビースクエア オパールホール
[聴講料] 5,000円
[お申込]
1.お申込み
●大原美術館まで、はがき、電話、E-mailにて、ご住所、お名前、電話番号(お持ちの方はメールアドレスも)をご記入の上「美術講座申込み」と書き添えてお申込下さい。
●先着350名。参加受付通知をお送りします。
2.引き換え
●7月1日(土)より聴講券の引き換えを開始します。
 参加受付通知と聴講料をご持参のうえ、美術館本館正面の入館券売場までお越し下さい。(7月3日、10日は休館日です。)
なお、この聴講券で、お求めの日から7月31日まで、大原美術館(本館、分館、工芸・東洋館、児島虎次郎記念館)をご自由にご覧いただけます。
※お申込みを解約される場合は、お電話でその旨お伝え下さい。
※当日会場での撮影、録音はご遠慮下さい。
〒710-8575
倉敷市中央1−1−15
TEL 086−422-0005  FAX 086−427-3677
E-mail koza@ohara.or.jp



毎週日曜日にギャラリーツアーを開催しています。

■「対話型鑑賞ツアー フレンドリートーク」
[日時] 毎週土曜 午前11時―
[定員] 20名
[予約] 特に必要ありません。当日本館アトリウムへお集まり下さい。(集合場所が変更になる場合がございます。館内アナウンス、または受付にお問合せのうえご確認下さい。)
[料金] 入館料のみ
[内容] 当館担当者を中心に、参加者の皆さんでゆっくりと気に入った作品を見つけながら時におしゃべりしながら見てまわります。


■「大原美術館 その歴史と作品」
[日時] 毎週日曜 午後1時30分―
[定員] 20名
[予約] 特に必要ありません。当日本館アトリウムへお集まり下さい。(集合場所が変更になる場合がございます。館内アナウンス、または受付にお問合せのうえご確認下さい。)
[料金] 入館料のみ
[内容] 大原美術館の歴史をひもときながら、展示場にならぶ名作の数々についてのトークツアーです。ご案内は当館学芸スタッフがあたります。
[集合] 入館券をお求めの上、本館正面玄関にお集まり下さい。


[お申込み・お問合せ] TEL 086-422-0005

2006/07/11(火) 大阪市立美術研究所・雑感 43
この度、大阪天王寺美術館では開館70周年を記念して「スペインの巨匠展」開きますよ。私にとっては懐かしき名前ばかりで、とくにムリリョにはお世話になっています。金がなければたいていムリョの模写描けば売れたからです。それとエル・グレコ。大原の「受胎告知」と違って優しいというか、まだグレコの作風が確立してないときですね。それにしても大原美術館はこの大阪美術館先立つこと昭和五年に完成してますね。しかも一個人の手で・・・オオハラは偉い。

2006年7月15日〜10月15日
9:30〜17:00、7月〜9月の毎週土曜日は19:00まで(各日入館は閉館の30分前まで)、休館日は月曜日(祝日の場合は翌火曜日)
●開催場所 大阪市 大阪市立美術館
●料金 一般1500円、高大生1100円
●主催 大阪市立美術館、読売新聞大阪本社、読売テレビ、国立プラド美術館、美術館連絡協議会
●お問い合わせ先 大阪市立美術館 06-6771-4874
●内容 大阪市立美術館では、開館70周年を記念して、特別展「プラド美術館展−スペインの誇り 巨匠たちの殿堂−」が開催されます。同展は、東京会場である東京都美術館が開館80周年と大阪会場である同館が開館70周年を記念して開催する展覧会で、西日本でプラド美術館のコレクションをまとまって公開する初の機会となります。同展では、エル・グレコ、ルーベンス、ベラスケス、ゴヤのほか、16世紀のベネチア黄金期最大の画家ティツィアーノ、"スペインのラファエロ"と呼ばれるムリーリョの作品など、世界屈指の絵画の殿堂、スペイン・プラド美術館が世界に誇る16世紀から18世紀のヨーロッパ絵画コレクションから厳選した81点が公開されます。

※イベントの内容が変更になる場合もあります。ご確認ください。 大阪市立美術館 HP
大阪府大阪市天王寺区茶臼山町1-82天王寺公園内 周辺マップ
●開館時間 9:30〜17:00(入館は16:30まで)
●お休み 毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)、展示替期間
●お問い合わせ先 大阪市立美術館
Tel: 06-6771-4874
●アクセス 大阪環状線「天王寺駅」北口から北西へ徒歩7分
路線マップ時刻表検索もより駅情報 天気予報
●概要 昭和11年5月に天王寺公園内に開館した美術館。敷地は住友家の本邸だった場所で、本館と地下展示室で構成されている。国宝や重文を含む約8000件が収蔵され、中国絵画・石仏からなる東洋美術、仏教美術・光琳資料・近世の漆工芸からなる日本美術がコレクションの中心。本館地下には美術研究所があり、素描・絵画・彫塑の実技研究を行っている。



主な出品作品


アモールと音楽にくつろぐヴィーナス(ヴィーナスとオルガン奏者) ティツィアーノ
皇帝カール5世と猟犬 ティツィアーノ
十字架を抱くキリスト エル・グレコ
フォルトゥーナ(運命) ルーベンス
ヒッポダメイア(デイダメイア)の略奪 ルーベンス
聖アンデレ リベーラ
ボデゴン:風景の中の西瓜と林檎 メレンデス
ハンガリー王妃マリア・デ・アウストリア ベラスケス
ヴィラ・メディチの庭園 ローマ ベラスケス
道化ディエゴ・デ・アセド ”エル・プリモ” ベラスケス
エル・エスコリアルの無原罪の御宿り ムリーリョ
貝殻の子供たち ムリーリョ
果実を採る子供たち ゴヤ
魔女の飛翔 ゴヤ

2006/07/10(月) 大阪市立美術研究所・雑感 42
最近、若者が自己満足やストレス発散のため悲惨な事件が立て続けに起こっている。しかも事件を起こした子は普段「良い子」ばかりという。そこで今の若者はなぜ切れるのか、切れやすいのかを少し考えてみる。私見だが今の社会は全てに神経過敏の傾向があって、あらゆるものを密閉するような空間が随所に作られつつある。家庭、学校、塾、クラブ活動、男女関係でさえ、密閉された空間の中に入れられ、常にいい子であるという習性を幼いうちから徹底して体に叩き込まれているということである。その限られた場では異議を唱えると「不審者」と後ろ指さされるのである。しかし、社会というのは、しかも現代は特に異なった空間、異なった価値観、異なった風習の下で育った他者との出会いの場である。つまり異質な心性の相克の場であるということでもある。にもかかわらず、限定された空間の中で、つまりは無菌室の中で育った子供(人間)には異質な空間の場で育った人間との付き合い方、対処の仕方を全く教えようとしない。常に同質であることを求められて育ったのに、無菌状態で育てられたのに、いきなり社会という雑菌のうようよする空間に放り出されたなら途方に暮れるのは当然の話なのだ。他者が己の空間に立ち入ったら対処の仕方を学んでいないわけだから、パニックに陥るのは当然なのである。きっとこれからの時代は、例えば学校では仲間同士仲良くやれよ、と教育するのではなく、異質な空間に育ったもの同士の出会いの機会が増えることを想定して、異質なものが出会った際に如何に付き合うべきかを学ぶ場にすべきではないかと思うが如何かな。こういう時、人間不信、人間過信を繰り返され画家・石川功一氏の日本で「一番小さな美術館」を尋ねてみられたら・・・

昭和12年(1937)3月三重県の片田舎、伊賀市阿保(旧青山町)で開業医の次男として出生。
 中学時代から植物採集に凝り、三重県出身の植物学者、前川文夫先生(だったと思う)の植物観察会に最年少で参加したこともある。高校時代にかけてよく野山に出かけ登山道、間道などつぶさに憶えた。現在の山野を巡り、草木に染まる日々が重なる。
 20才のとき、大志をいだき東京へ出奔、漫画家となる。同期には赤塚不士夫、園山俊二等そうそうたる人達がいた。代表作に「口なし女房」(漫画読本)や「カラスVSアスター」(東京新聞)などユニークなものが多い。その間にも画家への道をめざしデッサンに明け暮れた。
 30才の頃より描きだしたドローイング「人間戯画」で画商に認められ、援助を受けることになる。以降人物画を中心に画家としての活動を続ける。
 1981年個展のため軽井沢を訪れて以来、草花画が本来目指すべき道と悟り、草花スケッチと草花油彩画に新しい境地を開き、植物の現場スケッチをモットーに春から秋にかけて軽井沢周辺の山野を巡る日々が続く。
 また、「草花の永遠の命を残したい」と絵葉書で貴重な植物を紹介したり、「軽井沢草花素描集」(1991年)や草花散策のガイドブック「軽井沢花だより」(1994年)を刊行したりと、軽井沢の草花の魅力を伝えている。
 

1937年 三重県生れ
1955年 大阪市立美術研究所に学ぶ
1960年 西銀座デパ−ト、ギャラリ−で個展
1971年 西武デパ−ト池袋店個展
1973年 銀座番町画廊個展 以後毎年個展を開催・個展主義を唱える
1981年 軽井沢りんどう画廊個展 「現代の美人画展」
銀座松坂屋個展「歴代ミス東京を描く現代の美人画展」
1987年 軽井沢植物友の会の発起人となり、全国に軽井沢町植物園と豊富な山野草を紹介する               1988年 銀座松坂屋個展 「軽井沢の民家と草花、
1991年 銀座松坂屋個展「軽井沢の草花油彩画展」
1996年 銀座松坂屋個展「軽井沢の草花油彩画展」
1997年 軽井沢町借宿に小さな美術館『軽井沢草花館』開館
1999年10月 軽井沢町軽井沢に小さな美術館『軽井沢草花館』を移転(10月23日)
2000年 小さな美術館軽井沢草花館 企画
※8月27日 天皇・皇后両陛下 ご来臨
2004年 小さな美術館軽井沢草花館 企画展
油彩による「ゆうすげと高原の草花」展  4月10日(土)〜6月20日(日)
2005年 小さな美術館軽井沢草花館 企画展

無菌室で育てられた街の花屋で見る、不気味なバラと違って、命がけで咲いている草花より何か得るものあれば幸甚です。

7月絵日記の続き


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