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2007/02/09(金)
40年前の美観地区日記より。 四十三回
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バスク老がやって来た。
記憶の良い読者なら第三回で登場するベレーにワシ鼻の親父だが、鞄からウイスキーを取り出し「チート、やらんとオエン」と俺の顔見て「山下清ジャー」とおっしゃるのだ。 なるほど「ボ、ボクはルンペンするのがクセで、これはク、クセだから、治らない」という所はそっくりなのかも知れないが、その山下清も昭和三十一年、精神科医でゴッホ研究者の式場隆三郎氏に伴われ大原美術館に来ているである。 例のランニングに団扇を使いながら独特の口調で「これは二等兵、これは中佐」と、名画に軍隊の位づけで品定めしていき、シニャックの点描画の前で「これが大将だ・・」と言ったので、報道関係者がグワッと笑ったらしい。関係者にすれば一番値の高いグレコを指摘してほしかったのであろう。
その頃、バスク老によると美術館前を定期バスが走っていて、入館者は絵の愛好者程度で閑散としていたと言う。 「ワシの少年頃はもっとジャー」その言に火を注いだのか老人特有の回想談が日も月をも舐める勢いで始まるのだ・・・
バスク老曰く少年時、つまり昭和初期には倉敷川を汐入川と呼び、満潮時にはクラゲが泳いでいたそうである。路上では屋台の上から水蒸気を「ピイーン」と鳴らすキセル掃除の「らお屋」下駄の歯を修理する「なおし屋」漬け樽を大八車に積み「シンコー、シンコー」と連呼する「漬け物屋」餅菓子を売る「カリカリ屋」という物売りの人達。それに虚無僧や手品師、淡路人形や猿回しの門付けや大道芸人が徘徊していたそうだ。
また向市場にあった倉敷劇場に芝居がかかった時などは、厚化粧で扮装した役者が人力車に乗り 、その前を「町廻りジャー」と叫びながらチンドン屋が先導する。
「チンチンドンドン、チンドンドン、もうひとつおまけでチンドンドン。スッテンコロンデ、ドッコイショ・・」そういう囃子をはやしたてながら何処までも付いて行ったとバスク老は目を細めるのだ。
ところでその倉敷劇場は田舎には稀に見る本格的な劇場で、初代中村雁治郎が来演したり、藤原義江の独唱会の公演があったり、倉敷はその頃より文化的な土壌があったものと見える。
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