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2007/02/22(木)
40年前の美観地区日記より。 五十三回
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氏はおっしゃるのだ。
「一夫多妻生活の秘訣は世間体など気にせず、博愛主義を貫き、そして当番の女には物心両面、勿論セックスも大いに満足さしてやる事だそうである。 それには常に健康に留意し、朝はアロエジュース、昼はレア・ステーキを何枚も喰い、なんとっても快眠八時間厳守とか・・・・それで ゆうべ三つして 今朝また二つ 合わせて五つ 紙は無くなる 眼はかすむ シノノメノ ストライキ
・・・という具合にウンと突き出すサービス精神が必要らしい。涙ぐましい努力じゃないか。
ただし、女が高瀬流のタブーを侵した場合、全体責任を取らせるというのだから、男女同権など叫んでいる女代議士に聞かせたい話であり、春秋の論法でいけば、彼女らこそ女の味方と称して実は女の敵ではないのか。 何故ならば所詮、女は献身的、盲目的、没我こそ女の持つ徳であり、その点を高瀬氏は良く知悉し、具現されているのには、ただただ、俺の息子もこうべを下げるのみである。 ところで一夫一妻が制度化されたのは紀元一世紀のローマの婚姻法とされている。 ひるがえって日本では稲作農耕か入ってきて定着、制度化さたのは確実であろう。 以来綿々と続いてきたのは一夫一妻形式が虚妄に満ち不自由極まりないモノであっても、その時々の権力者が庶民を治めるのに都合がよかったからであろう。 故に権力者だけが妾を持つことを権妻「ごんさい」として認めていたのであり、そこから外れた賤民は「せんずり」をかくしか仕方なかったのである。
しかし、今はもう姦通罪など風化し、性の氾濫でもう一人の男と女が一つ屋根で性行為を繰り返すことなど古くさくて呪わしいものになりつつあるようだ。 ましてや異性を得ると同時に一種の排他主義が生じ、また己のものを私有財産とする、非常に強い利己的な本能を重ねていくからである。 トルストイ翁は「こんなに人間個人主義になると、しまいには隣人とあるいは親子と、お互いに胸グラをつかんでお前が俺を殺すか、俺がお前を殺すかという状態になるであろう」と十九世紀の仕来りに行き詰まりを感じ嘆いておられる・・・・・
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